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酒気帯び美術鑑賞 :1

 「まったくけしからん!」というお叱りの声がどこからともなく聞こえてきそうなものであるが、軽く一杯(ほんとうに1杯分)を昼食時にひっかけるという程度のことならば、経験がないこともない。

 多くの美術館に併設されるレストラン・カフェでは、アルコールを提供している(千葉市美術館にいたっては、地下に「せんべろ」を備えている)。
 そして展示室では、酒気帯びの状態を十把一絡げにご法度とするわけではなく、「①酩酊状態で ②他のお客様の迷惑となる場合に お引き取り願う ③可能性がある」といった文言を定めている館が大半とみえる。よほどひどい場合に、最後の手段としてやむをえずにつまみだすこともありえるよ、気をつけましょうね……というくらいのもの。
 つまりは程度問題であって、泥酔・酩酊の境に陥らず、他人の迷惑とならない「気付け薬」としての一杯くらいならば許されるのでは……と都合よく解釈している。もちろん、そのあたりは館によって規定が異なるし、みずからの酒量や体調をよくよく観察し、人の迷惑となることのないよう気を配るのだが。

 「酒気帯び鑑賞」をするときは、みずからがその状態にあることを周囲に悟られまい、あらぬ不安をまき散らすまいと、妙に姿勢をよくしたり、きびきびと動いたりといった傾向は出てしまうものの、基本的には正常な意識と行動を保てている。
 それでいて、適量のアルコールは食前酒よろしく、目で見て感じた事象に関しても「消化」を大幅に促進してくれる。鑑賞の潤滑油として、これほど強力なものもあるまい。感覚が鋭敏になるので、ふだんは気づかないことに気づいたりもする。感想文のアイデアも、もくもくと湧きだしてくる。

 酒気帯び鑑賞にとりわけ適性が高そうなのは、理屈抜きで観る「抽象絵画」だとか、しらふでも読めぬような「書」の分野であろうかと思われる。
 良寛の研究家でもあった歌人・吉野秀雄が、良寛の屏風についてこんなことを書いている。

 一字一字の文字性を離れて、もっぱら、線の流動美だけに堪能しても、それはそれで一つの態度に違いなかろう。
 わたしは屏風の前で、友だちと何度も酒やビールを飲んだが、こっちが酔っぱらい出すと、良寛の書はたちまち音楽と化すことを実感する。無韻にして形象をもつ音楽なのである。

吉野秀雄「良寛の屏風」

 考えずに感じる。言葉はあとから勝手についてくる――大げさにいえば、酒気帯び鑑賞は、そういったことを感覚的に身をもって、かつ顕著に実感できる時間でもあるのだ。(つづく



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