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木隠静働:2 気韻生動 /明治神宮宝物殿

承前

 平櫛田中の「気韻生動」は「内に秘めた力感」と換言できそうだ。
 田中の木彫を観ていると、表面からは見えない芯の部分で、なにものかが胎動しているような錯覚をいだいてしまう。地表の奥深くで煮えたぎるマグマにも似た、なにものか。
 木彫は、元をたどれば「木の塊」。伐採、裁断され、彫り刻みつくされたからといって、木の塊であることには変わりがない。
 また、木という材は柔らかく、よくしなり、反発する。わずかな気温・湿度の変化で収縮・変形しうる可能性をはらんでもいる。常に「力を矯(た)めている」状態にあるのだ。
 木という素材に隠れて残存し、静かに作用する力感や柔軟性・反発性。そういったものを田中は殺さずに活かし、みずからの技巧と律動させることで、重厚な存在性を獲得しているように思われたのだ。

 このような視点をもって、田中以外の作家による出品作をながめてみる。田中の木彫と同じく木を素材とした作品が過半を占めているし、そうでないものも含めて、同種の力感や素材感が共通して感じられた。
 棚田康司さんは、木肌をあえて残し、木目を活かした一木造の人物像を出品。人間と同じく、一個体ごとに異なる木の個性を念頭に置いた造形は、今回の主旨にふさわしいものといえる。そういえば棚田さんは円空に私淑していて、昨年の「古典×現代」展(国立新美術館)ではペアで展示されていた。円空も、木の力をダイレクトに造形の力に変換した作家だった。
 展示ケースの隅っこに雑草を生やしていた須田悦弘さんは、棚田さんや円空とは逆に、素材感を消失させる。けれども、雑草に見えるものがほんものの雑草ではない「まがいもの」であると知った瞬間、木という素材はがぜん強く意識されるともいえる。逆説的な気韻生動の形か。

 考えてみれば、この明治神宮の森自体が人工的な森である。武蔵野の原生林をテーマとして、数十年、100年という壮大なスケールで品種ごとの成育状況が見通され、植生がデザインされていたことを、明治神宮ミュージアムの展示で知った。
 木を使ったランドスケープデザインであり、それ自体が壮大な木彫、インスタレーションだといってもよい空間のなかで、木という素材をテーマにした展示がおこなわれる意義は大きいように感じられた。


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