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没後50年 難波田史男 /東京オペラシティ アートギャラリー

 唐突ながら……この絵。
 みなさんなら、どんなタイトルをつけるだろうか? 
 けっこう、大きな寸法の絵だ。


 作者によるタイトルは……

 《自己とのたたかいの日々》(1961年  東京オペラシティ アートギャラリー)。

 みなさんが想像されたタイトルには、この絵を観てどのような感じを受けたかが、如実に反映されているはず。カラフルな色遣いや自由な描線が示すとおりの、児童画のような「明るい」印象。あるいは、ディテールや余白にただよう、得体の知れない「暗い」「怖い」印象。どちらもあろうかと思う。
  「自己とのたたかい」とは、やはり創作活動のことを指しているのだろうか。規則性や定まったかたちのない点が、苦悩や葛藤が終わりなく続いていくさまを表しているようであり、のたうちまわる姿は、こうして第三者的な視点から俯瞰してみれば、軽快で明朗で無邪気にすら映りもする。
 難波田史男の描いた絵には、こういった「一筋縄ではいかない感じ」が、どれにも一貫してみられたのであった。そして同時に理知的であり、詩情をまとい、熱情が込められている。

《無題》(1962年  東京オペラシティ アートギャラリー)
《トロンボーンの行進曲》(1967年  世田谷美術館)

 展示室を巡って作品を観ていけばいくほど、“天才” という野暮ったい表現が自然に浮かび、その確信が強まっていった。
 難波田龍起という抽象画のパイオニアを父に持ちながら、その影響だとか縛りだといったことを微塵も感じさせず、むしろ10代のごく若い頃からすでに自己を確立し、そのまま自分の世界の拡張にせっせと努めていったさまは、まぶしく映った。
 そして、それだけに、32歳というあまりに早すぎる死が惜しまれてならないのであった。

 史男が小倉発・神戸行きのフェリーから転落し、のちに遺体となって収容されてから、今年で50年め。
 この特別展示は、龍起・史男父子の作品を多数所蔵する初台の東京オペラシティ アートギャラリーのコレクションを中心に、世田谷美術館(12点)や富士見市立難波田城資料館(1点)からの借用品を加えた98点から構成されている。

《青の幻想》(1973年  東京オペラシティ アートギャラリー)
《追想》(1973年  東京オペラシティ アートギャラリー)
《松明を捧げる少年》(1974年  東京オペラシティ アートギャラリー)

 ここまで紹介してきた絵には、青系統の色が効果的に使われているものが多い。それは、筆者が史男の青に魅かれたことがもちろんあるが、全体的な割合としても、青を用いた作例が多めではあった。
 史男の青の多くは、海の青を描いているらしい。死の前年、雑誌のなかで、次のようなゾッとしてしまう発言を残している。


人は死んでゆく。僕もまた死んでゆく。海をみつめていると、海で死んだ人たちを思い、自分も海で死ぬことへの憧憬をおぼえる。そしてそこにある寂けさ、人間の孤独感。僕の作品に海景が多いのは、それ故かも知れない。そして作品に横たわるポエジーを僕は大切にしたい

「制作日誌」『日本美術』99号 1973年

 本展を〆たのは史男の作品ではなく、父・難波田龍起による「特別出品」の作品《幻》と《幽》(1974年)。

 作品解説は、ここにはいっさいつけられていない。
 しかし、史男展の最後に父・龍起の作品が展示される意味、《幻》《幽》というタイトル、史男の没年・1974年の制作……そしてなにより、絵そのものから漂う荘重な空気から、語らずとも伝わってくるものは充分にあろう。


 ——やりきれない気持ちを残しつつ、もう一度背後を振り返ると、たいへんカラフルでポエジーな史男の幻想世界が広がっていた。
 その後に待ち受ける作者の最期を知れば、作品の見え方が変容してしまう部分もあろうが、そればかりに支配されるのもまた、よろしくはなかろう。絵を描いているその瞬間を全力で生きていた作家に対して、そういった色眼鏡は失礼にあたるのではとも思われる。
 すべて呑みこんだうえで、改めて絵を眺める。やはり、心地がよい。作者の死はあまりに惜しい損失だったが、「こんなにいい絵をこの世に残してくれた」と言い換えることは許されるのだろう。

5点並ぶと、こんなに彩り鮮やか


 ※瀬戸内の海で命を落とした夭折の天才画家といえば……2015年に25歳でこの世を去った中園孔二さんもそうだった。中園さんのことを少し思い出しながら、本展を拝見していた。

 ※駒込の「ときの忘れもの」でも史男展が開催中。


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