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色鍋島あれこれ:2

承前

 その技術と美意識の高さにおいて、「日本磁器の最高峰」を鍋島と争うものがあるとすれば、柿右衛門であろう。

 乳白色の素地、いわゆる濁手(にごしで)の余白をたっぷりと活かした構図は、とりわけ「日本的」と評されることが多い。この位置づけには、柿右衛門の多くがヨーロッパへの輸出用として製作され、日本の看板を背負っていたことも関係すると思われる。
 水墨画の空間感覚と結びつけ、無に有を見出そうとする点に「日本美」を見る文脈はたしかにわかりやすい。この見方に対するおもしろい反論を、八木一夫の文章に見つけた。

 柿右衛門手といわれる色絵磁器よりも、むしろ鍋島藩窯の染付や色鍋島に、私はより日本的構図を感じさせられてきた。あのような密度と律義さは、いわゆる余情に乏しいといえなくもない」「だが何より、そのような図案を構成していく生真面目な合理性と、風流の好みとの独特な組み合わさりかたがあって、実はそれが私を「日本的」だと感じさせるのである(八木一夫「伊万里三百年」『オブジェ焼き』より)

 「生真面目な合理性」と「風流の好み」。一般的には前者が鍋島焼の紋切り型の語りだが、後者もけっして見逃してはならない鍋島焼の特質であろう。機智に富んだ構図は、デザイン的なおもしろさ以前に「遊び心」に由来している……ふたつのキーワードを意識しつつ、また鍋島焼を観てみたいものだと思った。

 この文章のもうひとつのおもしろみは、オブジェとは対極の位置にある「きちっとしたうつわ」の代表格であるところの鍋島について、オブジェ作家である八木一夫が鋭く言及しているという点である。
 冷静になって考えてみれば、八木のオブジェも鍋島もきわめてコンセプチュアルな造形思考のもとに、慎重に慎重を期して生み出されたものだった。
 八木の著作にはここ以外にも、驚くほどの頭の柔らかさと(俗にいえば)「キレッキレ」の思考がうかがえる箇所が随所にあり、興味が尽きない。

 八木で「キレッキレ」といえば、昔『芸術新潮』の特集に出ていた八木作のぐい吞みを思い出す。
 どんなものだったか、雑誌を開いて確かめてみた。「紙のように薄い」その盃の口造りは、カミソリのように触れればスッと切れてしまいそうなほど薄手だった。わたしにはそれが、八木の文章のすぱっとした切れ味や、さらには色鍋島の皿の端正な口造りと重なって見えてくるような気がした。(つづく


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