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藤牧義夫と館林:6 藤牧義夫の「編集力」② /館林市立第一資料館

承前

 義夫は、鉄骨むきだしの橋や近代的なビルといった巨大な構造物、それに雑踏のような都市風景に格別の関心を示したようで、モチーフとして頻繁にとりあげている。自然の風景や日本家屋を描いたものはあるにせよ、作家としてのアイコンとなっているのはこちらの主題だろう。
 首都・東京と地方都市の格差が、あらゆる面で現代とは比べものにならないほど大きかった時代。巨大構造物・雑踏とも館林にはほぼなく、逆に東京にはありふれた要素だったはずだ。
 また、何度か移籍した勤め先は、いずれもそれなりに勢いがあったとおぼしい都心の図案工房、いまでいうデザイナーの事務所。最新流行のデザイン感覚、都会人のセンスが凝縮された現場に、義夫は身を置いていた。
 つまり、館林においては得ることも、想像すらできなかったような刺激的な視覚情報の奔流が、上京したての10代後半の多感な美術少年のもとには押し寄せていた。地方出身者が多かれ少なかれ味わう「都会の洗礼」的なものが、より増幅されたような衝撃だったであろうか。
 美術学校にかよっていれば、美をいなす術(すべ)の基礎を理路整然と叩きこまれ、またそれらに守られて、都会の渦に呑まれるようなこともなかろう。
 しかし、義夫にはそういったくびきからの自由があり、同時に父から間接的であれ授かることとなった「編集力」という舟の操舵術があったのだ。
 そんな義夫には、明らかに「誰それの影響を受けている」とわかるような作例がない。都会にはびこる「刺激的な視覚情報の奔流」のなかに溺れたり、迷ったりといったことが、彼に関してはなかった。これは驚くべきことである。

 渦に手を突っこんで「創作版画」という剣を抜きだした義夫は、混沌のなかから作品の主題としてなにを選び取り、いかに見せていくかという面でも、すぐれた力を発揮した。
 絵においては、写真のように現実をありのまま写しとろうとすることもできれば、それこそ「絵空事」のごとく、書き換えや書き加え、消去、合成といった創意工夫が自在に可能だ。画家に問われる力量の多くを占めるのは、むしろこのうち後者だといってよい。
 義夫はとりわけトリミングや構図といった面で、ある種の妙味を持ち合わせていたように思われる。
 義夫は父の伝記を編纂したあのときと同じように、大都会にあまたある刺激的なモチーフを彼なりのフィルターを介して見て、うまく取捨選択・換骨奪胎し、絵画作品として形にしてみせた。
 その最たるもの、集大成といえるものが《隅田川絵巻》であっただろう。(つづく


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