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建部凌岱展 その生涯、酔たるか醒たるか:3 /板橋区立美術館

承前

 展示全体を見わたしてみて、かように手広い仕事をした凌岱でありながら、「器用」という表現が、ふしぎと当てはまらなそうだなと感じた。凌岱の作域が広いのはたしかだけれど、イコール「器用」とは断じがたい。
 それは、きっちり描いた絵よりも、闊達に筆を動かした「酔たる」絵のほうがいきいきと、それこそ水を得た魚のように映ったから。そして「かっちり系」でどんなに隠そうとしても、「酔たる」凌岱像がどこかに垣間見えると感じたからだった。
 かっちりきっちりは、しようと思えばできなくはない。けれど……この画人の本質は、どちらかといえば「酔たる」ほうにあったのではないか。

 本展のリーフレットがすぐれものだということは、すでに述べたとおり。
 そのインパクトを強烈なものにしているのは、特異なつくりやデザイン性以前に、《海錯図(かいさくず)》(青森県立図書館)の存在であろう。
 《海錯図》は、もとをたどれば東洋絵画の伝統的な画題「藻魚図(そうぎょず)」に行きつく。藻魚図には水中をぬるりと往く魚とたゆたう藻が、水の流れとともに描かれるのに対し、凌岱の《海錯図》には背景じたいがない。そのせいか、気球や飛行船が空中を行き交うようにもみえる。
 展示には、凌岱の手になる、ほとんど藻魚図そのままの作も出ていた。こちらの作品名は《遊魚図》。
 中国もしくは李朝の藻魚図の臨模にはじまり、《遊魚図》を経て《海錯図》へといたる――もし、そのようなプロセスだとすれば、凌岱が先行作例を上手に消化し、自分なりの表現を完成していくさまをよく物語るといえよう。
 いっさいのとらわれがない、気持ちのよい奔放な筆。交錯する魚介たちの配置の妙。東洋絵画の伝統からはじまり、そのくびきから解放されたのびやかな境地――「酔たる」凌岱の本領が、この屏風には惜しげなく展開されているのだ。

 《海錯図》でことのほか印象深いのは、ほかの画家の作ではほとんどお見かけできない「エイ」の姿。この顔(?)つきを見て「ぷっ」と吹き出してしまわない人が、はたしているだろうか。同じようなエイは、凌岱が出版した画譜にも登場する。お気に入りのモチーフだ。
 エイは、凌岱が生まれた津軽では「カスペ」と呼ばれ、安価な冬の味覚として好んで食されるという。
 凌岱が好んでエイを描いたのは、人の顔(に見える部分)に対して絵画的な関心をひかれたというのはもちろん、故郷を感じさせる食材としてのエイを、凌岱が愛していたからというのもあったかもしれない。

 「熱燗にエイヒレなんて、いいよなぁ」などとひとり思いながら、会場を出た。
 「酔たる」凌岱に、乾杯。


 ※エイの「顔」に見える部分は……顔ではなく「鼻の穴と口」らしい


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