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あれから13年 ただの都会に感じられるようになったバンコク ー序章ー

あれから13年経った。
ふと当時の住まいの近くを通りかかると、まるで全てが180°変わってしまったようだが、黄色いネオンに照らされた、怪しいバンコクの片田舎が脳裏に浮かび上がる。そう、あの頃のバンコクは、都会をまとって生活してる人間なんか、ほとんどいなかったんじゃないかな、と思う。そろそろ色んな事が時効になっていると思うので、この町で経験した色んな事を書き記しておきたい。

この町に来たのはNatという女の子がきっかけだった。けど本当の所は、何か息苦しく感じられた日本社会から抜けだして、新たな環境に自分の身を置きたいという、心の奥底の気持ちから行動した結果だったのかもしれない。それはまさに、流れ着いたという感じだった。それから半年間、自分の所有物は全てバックパック一つにしまえる量しか持ってなかった。身軽だった。すぐに何処へでも行ける気がした。ある友達は、そんな僕を見てこう言った。KOBORIは、未だ旅の途中か?と。

大学を卒業し、農業をして暮らしていた1年あまり、いとこの子供たちの面倒を見ながら暮らす田舎暮らしは、悪くなかった。むしろ楽しくて、日々の生活での時間の余裕もたくさんあった。ただ、「これならいつでもできるな。」という考えも同時に浮かんでいた。

初夢で見たミャンマー旅行を果たすべく、すぐさまバンコク経由でミャンマーに向かった。ミャンマーでの一か月間、途中からは現地の食べ物が合わず、ボロボロになってバンコクに戻ってきた。そんな僕の目に、バンコクは魅力的に映りすぎたのかもしれない。ご飯もおいしかった。みんなひたすらに明るかった。スカイトレインや地下鉄というような都会的な要素も揃っていた。

ある日、地下鉄の駅からゲストハウスへの帰り方が分からず、近くを歩いていた事務員風の女の子に声をかけた。それがNatだった。僕はもちろん携帯電話なんて持ってなかったから、何かあったら電話かけるね、といった具合で、ちょっと強引に電話番号を教えてもらった。

それから1か月ほど、スラム街で有名なクロントゥーイの近くのゲストハウスを拠点に滞在し、銀行員だったNatの終業を待ってはご飯を食べに行ったり、Natが副業としてやっていた屋台での化粧品売りを手伝ったり、このいかがわしいアジアの雰囲気が漂う町が気に入ってしまった。日本へ帰る時、すぐにまたこの町へ帰ってこようと思い、二か月で戻って来た。

勢いで飛び出してきたバンコク。でもまずは仕事がないと飯が食っていけない。貯金は30万円くらいしかなく、時間も限られていた。日本でもインターネットでバンコクでの仕事の口を探したけれども、ほとんど現地での面接を求められたので、もうタイに来るしか道はなかった。再来タイの初日は、Natと親友のAorが一緒に暮らす、狭いアパートの一室の床に転がり込んだけれど(タイ人は節約と、オバケが怖い事を理由に、ルームシェアをしている人が異常に多い)、二日目からは、前回の拠点であるスラム街近郊、ラーマ4世通りから入る、アリの巣のように入り組んだ小道の中にあるゲストハウスを拠点とした。小道のさらに小道を入った所にある、木造二階建てのゲストハウス。小っちゃいながら、ゲストハウス前には南国ならではのバナナの木やマンゴーの木も花壇に生い茂っていた。1泊120バーツ(当時、日本円は×3くらい)、しかも一か月契約だと更に安くなった。共同トイレ、共同シャワー、共有スペース等あって、部屋はベットに小さい机が一個あるだけの狭い部屋だったけど、全然不自由は感じなかった。壁にある2つの窓を開けて、深夜に大雨が降りだした時など、最高の寝心地だった。

凛とした管理人のおばあちゃん、下働きのRuby、ゲイのカップル BestとBear。彼氏がドイツに出稼ぎに行っているNickと居候のマッサージ師Jip、タイの歴史について勉強しているドイツ人のKarl。日本人は3人いて、初対面で「友達になりましょう。」と握手を求められた、謎の旅人・太郎さん、日本語学校で教鞭を取っている恒子さん、タイ人の彼氏SANKAKUとタイの田舎メソートより引っ越してきたさや子さん。後は余った部屋に入れ替わり立ち代わり、旅人が入っては出て入っては出てを繰り返していた。のちに友人からは、「家出ハウス」と呼ばれるようになるゲストハウスでの生活の始まりだった。

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