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人生をかけて観続けようと思った映画たち 2-2 映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツオトナ帝国の逆襲 ~後編

前回記事


いつからぼくたちは未来を信じなくなったのか。この映画はずっと問い続けて行く。

この映画との出会いは小学生の時だった。テレビ放送で始めてこの映画を観たことは、自分の人生の中で最大の後悔だと言ってもいい。そのくらい大好きな映画である。クレヨンしんちゃんテレビ放送の最終回として放送されたと勘違いしていた(放送時間が金曜から土曜に移動になっただけ)ぼくはその喪失感もあってラストシーンからエンディングまでずっと泣き通しだったことは記憶に鮮明だ。

この映画が今の自分の半分も生きていない子供だったぼくに、なぜあんなにも深く深く突き刺さって離れなかったのか。

それはこの映画が未来を生きることの悲壮さをクレヨンしんちゃんというファミリー向け※のタイトルを用いて子供にも丁寧に、共感してもらえるよう描いているからだと思う。
(※90s-ゼロ年代はまだまだアニメは子どもが見るものという社会通念が強かった一方で、原作が元来青年誌での掲載だったことからクレヨンしんちゃんは子ども向けなのかという疑問も生ずるため、便宜上このように表現する)

風間くん「懐かしいって、そんなに良いことなのかな?」 ネネちゃん「やっぱり、大人にならないとわからないんじゃない?」

20世紀博に夢中になる親たちの様子についてカスカベ防衛隊の間で以上のような会話が交わされた。当時子どもだった自分の疑問を如実に代弁してくれた台詞である。
大人は常に子供達へ夢や希望を持てと言う。まるで望みさえすればその通りになるかのように美しく未来を物語る。だからこそ、これを見る子供たちにとってこの映画で風間くんが提示した疑問が自分のものになる。
前進すること。成長すること。振り返らずに歩むこと。皆、これらを礼賛する。きっと明日は輝かしいのだと謳う。
小学生のぼくには振り返るべき過去の乏しさもあって、そんな風に教える大人たちがなぜ昔は良かったと口にするのか疑問で仕方がなかった。

チャコ「未来は失われるのね」
ケン「未来は常にある。俺たちが昔憧れた、夢の21世紀が」

イェスタデイワンスモアの司令部での今回の首魁二人の会話である。ここで、先ほどの風間くんの疑問に対して答えがあっけなく示される。
現実の21世紀の匂いは耐え難い。
外の人たちは心の空白を物質によって埋めている。

過去を懐かしむのは未来に裏切られたからだということを理解する。やり直したいと思う感情を、現実から逃れて再び帰りたいと望む心を、懐かしいと呼んでいることを知らされる。

未来はないと知っているのに、残酷にも明日は来る。

大人になった今、チャコとケンの思想の重みを改めて痛感させられる。20世紀博の匂いに魅了される大人たちは、みんな大なり小なり未来への不安と重圧に耐えてきた。それは明日が今日より必ず良い日であるということが幻想であると知ってしまっているからだ。
夢や希望の、未来に介在する余地の狭さに落胆する。いつの間にか未来を生きることは物理的に時間が進むゆえの惰性的営為に堕ちている。実際に未来に夢を持つには山積する問題が多すぎるからだ。これはいつの時代であっても分別ある大人なら抱えている気持ちだろう。環境問題や戦争、貧困、労働問題と言った主語の大きな課題から、自分を含む周囲の誰かに起因する卑近な問題に至るまで、子どもの時に夢に見たように、明日が本当に文字通り明るい日であることの嘘に気がついた時、20世紀博に自分も魅了される。
つまり、あの時憧憬した世界はこんなものではなかったはずだと憤怒し、悲嘆するのだ。

だから人は懐かしむ。過去を振り返り、手を伸ばそうとする。

それでも未来を生きること。

三輪自動車を運転しながら街の懐かしさに感涙するひろしは過去への未練を捨てきれていない。抗し難い魅力を放つその選択は一方でこれは家族との離別を、現在の否定を、未来の放棄を意味する。だが、彼は全てを脱ぎ捨てて逃げ出すことを選ばない。

ひろし「俺は家族と一緒に未来を生きる」

ぼくが一番好きなシーンが始まる。ボロボロになりながらタワーを駆け上がるしんのすけの姿は未来を生きることそのものを表しているように思う。

チャコ「死にたくない…っ!!」

クライマックス。野原一家の奮闘を観た20世紀博の住民たちは未来を生きることを選択した。そのため、ケンとチャコの野望は叶わず、彼らはタワーの最上部から身を投げようとする。未来を生きるつもりはないのだという彼らの哲学を全うするためだろう。しかし、巣を守ろうと羽ばたいた鳩によって自死の意思をくじかれる。死にたくないと放ったチャコの言葉はつまり、後ろ向きかもしれないが、それでも未来と向き合うという選択である。

しんのすけ「おまたヒューンってなったの?」
ケン「ああ」

後半部のギャグシーンにおいて、タワーから落ちそうになったしんのすけは股間に冷たい風が当たった感触に興奮し、この初体験に身悶えする。
ラストシーンでケンに対して再びこのセリフが交わされるが、これこそクレヨンしんちゃんという作品流の「未来」の意味だと思う。5歳のしんのすけにとって世界は知らないこと、未体験のおまたヒューンで溢れた世界なのだ。そしてそれは、未来に裏切られた大人たちにとってもまだまだ諦めるには早いことを諭している。
ひろしの靴によって自我を取り戻した野原一家をケンは自宅に招き、計画の全容を伝えた。未来を生きたいのなら行動しろ。と言った彼はどんな気持ちであったのだろうか。
おそらく、止めて欲しかったのだろう。チャコが死にたくないと言ったように彼もまた無意識的にか意識的にか未来への希望を捨てきれていない。

まだ見ぬあなたの「おまたヒューン」のために、この映画は問い続ける。

未来を生きることは足腰を踏ん張らせて立ち向かうことであると同時に、せっかく気張った足腰が砕けてしまうようなワクワクするおまたヒューンと出会うことでもある。それはひろしの言う「家族のいる幸せ」やしんのすけの言う「おねえさんみたいなすてきなおねえさんといっぱいおつきあいする」ことかもしれない。人の数だけ、未来と向き合おうとする意思の数だけ、そこにしかないおまたヒューンが存在する。
オトナ帝国は過去への羨望と未来への願望という誰もが抱え得る葛藤をコミカルに言語化してくれる映画だ。だからぼくはこれを愛してやまない。

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(kobo)


人生をかけて観続けようと思った映画たち  バックナンバー

01 ウォームボディーズ


02-1映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツオトナ帝国の逆襲 (前編)





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