『ヘベムニュラの落星(おちぼし)』16
その時、上がった悲鳴は怪物のものだった。床を転げて地面が振動し、天井から石綿が埃になって降りかかる。
ぼくはうっすらと目を開け、自分の生存を理解するとともに言葉を失った。
ククが化け物の右半分の顔に食らいついていた。
しかし、不意打ちが上手くいっただけで、劣勢なのは火を見るよりも明らかだった。
ククは小さすぎた。甲殻の化け物が大型トラックほどのサイズであるのに比べて、ククはオートバイよりやや大きい程度だった。
それでも、ククの鋭い顎と強靭な四肢はあいつの頬の関節の柔らかい部分を起点に、その周辺を覆う硬い表皮を剥がした。
ククは器用に地面に着地し、ぼくを背に化け物に対峙した。
そこからは壮絶だった。圧倒的な体格差を覆すには短期戦で化け物へ有効打を加え続けなければいけない。時間が経過すればするほど一撃に劣るククは体力を消耗して不利になっていく。屋内なのは、しかし、ククのサイズには強力なアドバンテージだった。ククが壁や天井を使って立体的に動き回ることができる一方で向こうの体格は仇となっていた。
ククはぼろぼろだった。硬い外角へ牙や爪を突き立てるため、ククのそれらも損耗していたし、圧倒的な体格差は足踏みさえククにとっては致命傷になりかねないほどだった。
ククは戦った。戦い続けた。化け物の砕けた表皮の破片が却ってククを切り裂くこともいとわずに、噛みつき、爪を立てた。
ついにククも化け物も肩を上下させ荒く呼吸を繰り返して牽制し合う。
ククは左の前肢の爪がほとんど剥がれて血だらけになっており、右目が潰れていた。怪物はというと、蟹だった頃の名残の鋏が片方砕けて使い物にならなくなっており、喉元や顔面の甲殻がズタズタに剥がれていた。
満身創痍の二対の怪獣はしかし、双方とも充溢した戦意を維持していた。動きたくても体がついてこられない。そんな感じだった。
再び二者が飛び出した時、拮抗した戦いが動いた。
右の爪を突き出したククに対して、怪物は壊れていない方の鋏で応戦した。
双方にとっての最大の武器とも言えるそれらが触れ合い――砕けたのはククの右の爪の方だった。ククを怪物の鋏の先端が貫いた。
ククは脱力して動かない。怪物の鋏にもククの爪の破片が突き刺さり、悶絶しているようだった。
ぼくはその時もう、自分の命や危険なんてどうでも良くなった。無意識に動き出した足がククの側へぼくを運んだ。怪物に潰された腕の痛みもかまわずに、冷たくなってゆくククを抱きしめた。市波、工藤、クリシェ、そしてクク。今更気が付かないふりなどできない。みんな守ってくれていた。ぼくは生かされていたのだ。
クリシェが死んだとき、ぼくはククに酷いことを言った。
青山が死ななかったとき、ぼくはククに酷いことを言った。
謝りたかった。ククを理解しようとしなかったことを。そしてまた友だちになりたかった。溢れてゆく。全て。ぼくの地獄のような日常の中で最も人間に遠く、最もぼくの近くにいてくれた友だちが。ククの体から鼓動が消えてゆく。
ククの心臓が、最後の一拍を打った。
堪えきれなくてぼくは叫んだ。
悲しい。悔しい。辛い。憎い。
ぼくはククを背に立ち、折れていない方の腕でポケットから鉄の玉を取り出した。青山から回収した、手榴弾だった。ククを巻き込まないために使うタイミングがなかったが、もうこの場所にはぼくと化け物しかいない。つぶれて使い物にならない腕の代わりに口でリングを引き抜いて、化け物に向かって投げつけた。
――くたばれ。
化け物の足元で跳ねたそれはしかし、コロコロと頼りなく床を転がって壁の端にぶつかって止まった。不発弾。あるいは最初からダミーだったのかもしれない。青山の笑い顔が浮かぶ。
怪物はぼくに向かって咆哮した。鋏を振り上げる。
ぼくも咆哮した。自分の無価値さと無力さがそれですすがれるわけではないが、そうすることでククの無念が一ミリでもこいつに突き刺さればいいなと思った。
次の瞬間だった。
ぼくの背後から火の玉が飛び出した。叫び続ける化け物の喉奥に直撃した火の玉は爆発した。廃工場の爆発と同じものだった。
ぼくは振り返る。
「クク……」
目頭が熱くなった。
ぼろぼろのククが立ち上がっていた。そして、まもなく崩れ落ちた。ぼくは倒れたククを抱き起こそうとした。しかし、折れた腕では力が入らず、もつれて一緒に倒れた。
もう、ククが動くことはなかった。
幸福と不幸の幅。ぼくは青山の言葉を思い出した。ククはぼくのそれを食べて最後の力を振り絞ったのだろうと思った。
隙間だらけの廃ビルに朝の光が差し込んだ。光がほこりに照り返されてその空間の輪郭を鮮明にする。光に溶かされるように、ククと化け物の身体が徐々に消えていった。
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次週最終回です。
(kobo)
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