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『ヘベムニュラの落星(おちぼし)』11

(↑バックナンバー↑)

 いつもの帰り道を歩く。大通りで救急車とすれ違った以外は――いや、ここ最近はそれさえも日常の風景の一部のような気がするが――平和な時間だった。以前は死に場所を探す旅の果てに必ず目にするアパート近所の風景だったのに、この場所を捨てて遠くへ行くともなると感慨深いものがあった。
アパートの敷地に足を踏み入れると、みあ、とクリシェが出迎えた。なぜ外でと疑問に思ったが、ぼくはクリシェへ優しく声をかけた。この子もつれて行こうか。工藤は何と言うだろう。
 そういえば思い返すと、クリシェの様子が変だったのはここ最近のことではない気がする。ぼくのあげたごはんは食べてくれたが、ぼくに対して以前よりよそよそしいというか警戒されている感じがした。今日まで猫なんかそんなものだと思って気にも留めていなかった。あれはククが家に来た日から、いや、それよりももっと前から、青山がぼくに目をつけてからかもしれない。

 今日のクリシェはより一層異常だった。しゃがみこんで名前を呼ぶぼくへ毛並みを逆立てて牙を向いたのだ。クリシェ? ぼくだよ? どうしたの? そう呼び掛けても距離を保って近づこうとしない。ぼくは威嚇するクリシェを何の気なしに抱き上げようと、体を寄せた。その時だった。
 ――フギュアア! ! !
 クリシェはぼくの手をひっかいた。傷口から真っ赤な血がにじむ。
 「クリシェ! 痛いよ何するんだ! 」
 ぼくはクリシェを𠮟りつけた。それでもクリシェは威嚇を止めない。ぼくが再びクリシェを部屋に連れ戻そうと歩み寄ったところ、クリシェは今度は顔に飛び掛かって目を爪でえぐろうとしてきた。とっさにそれを腕で受けたぼくは、背後に倒れクリシェに乗られた。腕を振り回してもひょいと避けてしまう。クリシェはフーフーと唸り声をあげている。
 「クリシェ! いいかげんに――」
 ぼくは言いかけて、言葉を失った。クリシェが横なぎに吹き飛んだ。そして、アパートの鉄製の階段にぶつかって動かなくなった。背骨があらぬ方向に曲がっており、絶命していることは明らかだった。
 「クリシェ! クリシェ! なんで、どうして……」
 ぼくは、クリシェに泣きすがった。そして、それを招いた存在へ向かって怒りを表した。
 「なんでなんだよ! クク! 」
 クリシェがさっきまでいた場所には、ククが立っていた。目にも止まらない速さだった。気配を殺し、その頑丈な前足でククを"小突いた"。多分、ククにはそんな感覚だったような動きだ。
 「あああ! クリシェ! クリシェ! 」
クリシェの亡骸を抱きしめているぼくに対して、ククが喉を鳴らして近づいてきた。
 「クククゥ、クク」
 「うるさい! こっちに来るな! 化け物! 」
 ぼくはククの側頭部を手の甲で叩いた。まるで慰めようとするような声音に、ひどく腹が立ったのだ。
 「クゥ、クク……」
 振り返ればこの時のククは痛くはなさそうだったが、とても悲しそうだった。

 ぼくはクリシェを埋めることにした。適した場所も知らなくて、誰も使っていないアパートの植え込みに埋葬し、花と缶詰を供えた。ぼくのその背中をククが何も言わずに眺めていた。
 ぼくはククに一言も何かを語りかける気が起きなかった。多分、そうしたところで酷い罵詈雑言以外何も出てこないだろうと思った。頭を冷やしたかった。無意識的に、こんなことがあってもククを友達だと思っていたし、傷つけ合いたくないと思っていたのかもしれない。

 そして、ククはいなくなった。
工藤との待ち合わせの時間ギリギリまで町中を走り回っても彼は見つからなかった。

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(kobo)

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