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大学でのデザインの評価-〇〇ではなぜ評価されない?-

こんにちは、神戸のデザイン学博士、中村です。今回は、前回の記事「美大ってどんなところ?」で触れた美大のデザイン系実習での作品評価に関する話題です。
タイトルからして、多くの関係する方々からなんとも反感を買いそうな内容になるかも知れませんが、それはそれで今の私の所属する美術系建築学科では事実であることから、誤解をうまないよう丁寧にお話をすることを試みようと思います。

家のイメージ
タイトルで示した〇〇に入るワードは、実は前回の記事の住宅デザインの課題の件のところで登場させたものです。
現在、私たちの住まい、とくに戸建住宅というと実に多くの方々がイメージされるのが郊外の住宅街に建ち並ぶ建て売り住宅の形式のといった住まいでしょう。
私は現在40代ですが、都内に勤める一般的なサラリーマンだった父は1990年代に埼玉の新興住宅地にいわゆる庭付き一戸建てのnLDKと表現される建て売り住宅をローンで購入しました。以降、20歳まで私はそこで暮らし、神戸で家族をもってからは実家としてお盆休みと年末年始に帰省をしています。
私が10代も終わろうとする頃、芸大進学を志したあたりから、ごく些細で一般的によくあるような家庭的な問題は多少はあったものの、どうしてもこの実家と地域が好きになれないことが手伝って、早く家を出たいと切望するようになりました。
今しがた「手伝って」と表現したように、まだ若かった私の、いろいろなことに挑戦して世界を広げたいという性格的な強い思いがその主たる要因であることは明白で、当時はよく「刺激がたりない」とこぼしていたことを思い出します。
とはいえ、当時の父と近い年齢にさしかかりつつも、未だに風来坊のような生き方をしている私。それに対して堅実にローンを組んで庭付き一戸建てを購入し、家族の確固たる居場所を確保した父。今となってはそのことに感謝をしております。
その後、私は見たこともないような素敵で不思議な住宅建築のデザインにどっぷりと浸ることになり、住まいの世界が急速に広がっていきました。

そのレポートで大丈夫?
さて、そのような背景があり、デザインの中でも建築デザインを専門として指導する立場となったのですが、「デザインとしてに優れていると感じた住宅作品」というレポートを1年生に課した際に印象的だったことがあります。まだ勉強を始めたばかりの1年生なので住宅作品を知らないために結果的にそうなったのか、または自分の経験値が少なく選択肢がそれしかなかったのかは分かりませんが、かつて私が過ごしたような郊外住宅地の戸建て住宅の例が散見するのです。目を凝らして見比べれば、外観の微妙な違いやテクスチャ(建材)の使い方の違い、平面図のわずかな違い、もちろん色の違いは一見してあるのですが、不動産や仲介に掲載されているもの然としている。
たとえば、「没個性=デザイン」といったような独自の観点から個性的な論を展開する手はなくははないとは思うけれども、もちろんそうしたものはありません。
私はハウスメーカーによる建て売り戸建住宅がダメだと言っているのではありません。それを題材とするなら住宅がビジネスとして展開していること、つまり空間やかたちそのものではなく、ソフトとしてのビジネスモデルのデザインの秀逸さを論じるのが適切かと思うのです。

とはいえまだ1年生ですから、そうした気づきを与えるのが私たちの役目といえばそれまでですが。

住まいのデザイン評価
レポートの話に続き、次はデザイン制作の実習の話です。これもまた、まさにハウスメーカー然としたものを「作品」として制作し、もってくる学生がいます。庭付き一戸建ての3LDKは、私の思う限り「商品」ではあっても作品ではありません。
もちろんそうした一般的な商品に、デザインの可能性がないということではありません。
たとえばかつて、コモンシティ星田を設計された建築家•坂本一成先生は、四角い箱に三角屋根がのってる典型を「家型」とした概念として提唱し、独自のデザインソースとして取り入れて時代の潮流の一端を担いましたし、そして何よりいわゆる家型は私たちの暮らす日本の気候風土に適してもいます。

ところが、そうしたことを知らないまま、人々の暮らしに新たな価値を見出そうとするトライをすべき場所において、経済的な合理性を土台として考案された建て売り住宅というシステムによる没個性的な暮らしのイメージをもって来られても、空間としての豊かさやアイデアの新しさ、未来のライフスタイルを考えるという点において評価はできない。
それが私たち美術・デザイン系の教員や、建築家・デザイナーの評価なのです。

年齢が若くて今風の、美大にきている学生たちにですらそういうケースが散見されるわけですから、私とか私以上の年代の大人でデザインに触れてくる機会のなかったは方々は言うに及ばず。
デザインへの誤解は実に根深い問題なのです。

私にできること
しかしそれは仕方がありません。というのは、デザインに触れる機会そのものがなかったわけですし、デザインを論理立てて教えてくれるのは大学などの専門領域としての高等教育に限られてきたからです。もっといえば、デザインを体系立てて論理的に教えられる先生がそもそもごく稀にしかいない。
住まいのデザインは、衣食住のひとつを担うほど大切なものであるはずなのに、未だにそのような乏しい教育環境しかないのがなぜなのか不思議です。

やはりデザインの正しい理解を広く社会に伝えていくためには、大学などの高等専門教育機関の外側をフィールドにしていかなくてはならないのでしょう。

だから私は大学以外で教えるのです。
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