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「新長田を彩るプレイヤー ~新長田のまちとダンス~」-Part1-

新長田に根付くDANCE BOX

そのルーツと事務局長“文さん

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今回は新長田を拠点するDANCE BOXの事務局長の「文さん」にお話を伺いました。
DANCE BOXは1996年に大阪で始動してから、単に優れた作品を紹介するにとどまらず、多くの新しいアーティスト・作品を生み出し、コンテンポラリーダンスをメインとする日本で有数の劇場として、大きな役割を担ってきました。
2009年4月に神戸・新長田移転して、新長田地域に根差した劇場として受け入れられ、地域・行政と連動したプロジェクトを行っています。
文さんはDANCE BOXにおいて事務局長として、コンテンポラリーダンスの企画や発表の場をマネジメントする一方、ダンスカンパニー 千日前青空ダンス倶楽部のダンサー「稲吉」として、自ら表現者としても活躍されています。

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-記者-
本日はよろしくお願いします
経歴やダンスを始めたきっかけについて聞かせて下さい
-文さん-
小さいころに、親や伯母の勧めで児童劇団に入ったので、物心つく前には舞台は身近な存在としてありましたね
小学校に入ってからは綺麗な世界に憧れてバレエを始めました
高校生くらいまではお稽古としてバレエを続けていましたね
その中で私はバレエ向きではないなと思って
踊りは好きだったので、そこから踊り探しの旅に出た感じです

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-記者-
そして今されているのが、コンテンポラリーダンスですね
-文さん-
ご存知でしたか?コンテンポラリーダンスは
-記者-
最近、テレビなどで良く拝見するようになりました
-文さん-
ちょうど私が大学に入ったころに、ダンス1本にしたんですけど
当時まだコンテンポラリーダンスって言葉があまりなくて、いわゆる「新しいモダンダンス」という感じで言われていました
-記者-
文さんはDANCE BOXを立ち上げた時から関わっていらっしゃると思うんですけども、
当時はマネージャーとしてではなく、プレイヤーの立場としてでしたか?
-文さん-
両方ですね
できるだけダンスの存在を社会に広めたいと強く思っていた時期なので
ダンスの公演を観れる環境をどう作っていくかを考えていました
ただ、そんなにたくさんのダンサーが近くにいたわけではなく
私たちも数多く舞台に出ていたということで、二足のわらじでした

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-記者-
環境を作るとは具体的にどういうことですか?
-文さん-
それは今と全然変わっていないところなんですけど
ダンサーや振り付け家がどうやって社会的地位を築いていくか
少なくとも1つの職業として認められるにはどうしたらよいか
そのためにもっとアウトプットを多くしていく必要がある、みたいなことを含めて、
基盤そのものを考えることをやっていました
-記者-
基盤を作るというのは、披露する場を設けたり、アーティストと披露する場を繋げる、そういった活動でしょうか
-文さん-
それもあるし、劇場って一回公演するのにもお金がかかるので、みんな自費負担になったりするんですけど
踊り手が自費負担でない、自分たちの踊る場をどう作るのか
例えば、ダンスアーティストを公募して出てもらうっていうようなことをプログラム化したりとかですね

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-記者-
普通にプレイヤーとして踊っているだけだと、そこまで中々行きつかないと思いますけど、そういうふうに踏み切った理由はあったんですか?
-文さん-
それは一緒にDANCE BOXを始めた私のダンスの師匠の考え方が大いに刷り込まれてるとは思います
自分の足元というか生きていく世界は自分が作るということやと思うんですけど、師匠や周りのダンサーたちとそういうお話をしながら一年くらいそういう試みをやっていました
-記者-
DANCE BOXを立ち上げる前の、大阪時代の時ですか?
-文さん-
そうですそうです
今のDANCE BOXの代表の大谷が民間のホールのプロデューサーだったので
他の催しが入っていない月曜日やったら使っていいよっていうので
月曜日にダンス公演を展開するといった感じでやり始めました
だからそれが今の代表の大谷との出会いであり、一緒にプロジェクトをスタートし始めたきっかけですね
-記者-
じゃあそこからずっと一緒にされてきてるんですね?
-文さん-
そう、ずーっと一緒にね(笑)

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