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環世界と貴族道徳というレンズで多様性を覗く。

今回は、私が考えていた多様性の話と親和性の高い哲学概念があったので、紹介したい。

みなさんは、「環世界」という言葉を聞いたことはあるだろうか。環世界とは、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルによって提唱された概念だ。個々の生物が自らの環境をどのように認識し、相互作用するかということについて言及している。生き物それぞれに認識の仕方があり、それぞれの世界が存在するのだ。

ユクスキュルの著書『生物から見た世界』で書かれているマダニの話はよく知られている。マダニは、視覚や聴覚を持たない。嗅覚を頼りに動物を感知し、木から落ちていく。そして、温度感覚や触覚を駆使して、なるべく毛のない場所へ移動し、その動物の血液を吸う。これがマダニが認識する世界なのだ。その世界は、マダニにしか知り得ない世界だ。

葉の上で脚を上げて待ち伏せするマダニ

貴族道徳は、フリードリッヒ・ニーチェが提唱した哲学概念だ。従来の道徳観に対して批判的であり、個人の優れた能力や意志を追求することを重視している。

ユクスキュルの環世界とニーチェの貴族道徳は、それぞれ異なる文脈や議論の中で使用されている。しかし、私は環世界は一種の貴族道徳なのではないかと思っている。

環世界と貴族道徳は共に、固定された価値観にとらわれない自由な発想を育む土壌と言える。両者ともに個人の視点や主体性を重視している。環世界は個々の生物の独自の世界を強調し、貴族道徳も個人の意志や自己の価値を重んじている。個々の意志に基づいて行動することで、適切な価値判断が可能となると説いている。

貴族道徳は、水槽を個として捉えており、個々の主観的な価値観を追求している。対して、環世界は、水槽に重なり合いを求めるための概念だと思う。つまり、相対性を強調している。その分、まだ世界を信じているのだと思う。

環世界は、人間同士でも存在しているものであると思う。人は、それぞれが異なる環境や視点から世界を捉えており、同じ体験でもその受け取り方や意味合いは大きく異なることがある。自分にとって「重要」だと思っていることは、相手にとって「重要」では無く、認識さえされていないということは、往々にしてある。これは、同じ瞬間に別々の環世界に身を置いていると言えるだろう。

人それぞれに、環世界が存在する。こういった理解は、多様性を認めつつ、個々人が自身の環世界を構築する手助けとなるだろう。そして、自らの環世界を信じ、誇りに思う。環世界の視点は、貴族道徳の核心に沿ったものと言えるのではないだろうか。

蛇足ではあるが最後に、私が最近考えていることについて書きたい。現代詩、前衛音楽、現代アートは、その解釈に環世界を形成しているのではないかと思っている。私がこれらが好きな理由の一つがそれだろう。そのため、私がこれらの芸術に触れる際には、単に表面的な美しさや楽しさだけでなく、その背後にあるメッセージや意図を読み解こうとしてみる。その結果はどうでもよく、考えてみることに価値があるのだ。


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