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効率化のために詰め込まれた水槽の名前はぼやけるのか。

ネオンテトラの水槽。アロワナの水槽。ベタの水槽。
別に違和感を感じないが、これが、男性の水槽、女性の水槽、健常者の水槽、障がい者の水槽、となったときに違和感を感じる人は多いと思う。

この違和感がどこにあるかを考えると、「その単位でものを見る」というところにあるのだと思う。
男性の中にもいろんな考え方の人が居ると思うし、障がい者の中にもいろんな考え方の人が居ると思う。勝手に個人に干渉して、男性だからこうあるべきだとか、障がい者だからこうだとか、逆にこれはしてはいけないとか、が違和感なのだ。

主語が大きすぎるのだ。大きい括りでは、なにも解決しないし、そんな単純な話ではない。なので私は、世間体の差別のようなものと、それに対立するものが、何か同じように見えてしまう。ずっと平行線になっている気がする。
簡単に言うと、大きい括りでものを見ることを差別とするならば、「差別 対 差別嫌いの差別」に見えるのだ。


上記のような干渉と「援助(または区別)」とごちゃまぜにしてしまう人もいる。例えば、障がいを持っている方だったら、なにか援助をしないといけない人もいる。
有名な著書である、嫌われる勇気でも書いてあった気がするが、「援助」と「介入」は似て非なるもので、見分けて行動しなければいけない。

障がいを持っているというだけで、かわいそうとか言う人が時々いる。わかりやすい介入の例だと思う。
かわいそうかどうかはその人が決めることで、第三者が言うもんじゃない。


そして、これから私たちが目指すのは、効率化のために詰め込まれた水槽の名前をうまくぼやかすことだと思う。
最近話題になるLGBTを例にとって説明すると、まず名前がない所から、LGBTとそれぞれ名前を付けて議論の場に持っていけるようにした。名前がついた段階である。最近は、Q+なども追加して表記されるようになった。
次は、この名前をどうぼやかすかということ。

例えるなら、いろんな色のボールがあって、青のボール、赤のボール、緑のボールという感じで、名前を付けて効率化した。
ここからどう「結局、全部同じボールだ」というレベルまでぼやかすかということ。青のボールと言っても違和感はないけれど、まあボールでいいよねという具合。

マイノリティであれ、マジョリティであれ、良いことをしたら平等に評価されるし、悪いことをしたら批判される。判断基準が、効率化のために詰め込まれた水槽ではなく、個々人というレベルまでぼやかす。つまり、プラスでもマイナスでもなく、いかにゼロを目指すかが重要なのではないだろうか。

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