20.西晋王朝③ 先行研究覚え書(2)
はじめに(雑談と導入)
はい、こぼば野史です。
またもや日が空いてしまった。
夏期休業レポートを書いていて、投稿ができなかった。アルバイトがお盆休みで何もなかったので、ここで総仕上げを行っていた。
おかげで夏期休業レポート全て提出し終えた。夏期休業があと1ヶ月ある中で全てのレポートが終わったのはこぼば野史史上初であった。
という話は置いておいて、今回は自己満足シリーズ、「西晋王朝」である。
今回纏めるのは、
越智重明「領軍将軍と護軍将軍」『東洋学報』44巻1号、1961年、1-40頁
である。
魏晋南北朝時代には将軍号は様々ある。○○将軍という官位が付くものだけでも、三国時代(魏)を例に出すと、
〈相国府〉
・中衛将軍 ・驍騎将軍
〈大将軍府〉
・大将軍
〈近衛軍〉
・武衛将軍 ・中塁将軍
〈殿内の侍衛職〉
・殿中将軍
〈武官〉
・驃騎将軍 ・車騎将軍 ・衛将軍
・中軍大将軍 ・上軍大将軍 ・鎮軍大将軍
・撫軍大将軍 ・南中大将軍 ・輔国大将軍
・四征将軍(征南将軍、征西将軍、征北将軍、征東将軍)
・四鎮将軍(鎮南将軍、鎮西将軍、鎮北将軍、鎮東将軍)
・四安将軍(安南将軍、安西将軍、安北将軍、安東将軍)
・四平将軍(平南将軍、平西将軍、平北将軍、平東将軍)
・前将軍、後将軍、左将軍、右将軍
他75の将軍号がある。また、将軍号が付かないものの、軍事職に該当するものに、軍事の最高職である大司馬府の大司馬、軍事の最高責任者である太尉府である太尉、○○都督など、枚挙にいとまがない。
本稿で取り上げる領軍将軍と護軍将軍に関連する、中領軍と中護軍の説明を附しておく。
中領軍
初め領軍、のちに中領軍と改める。禁兵(近衛兵)を司る。他に領軍・前領軍・行領軍がある。
中護軍
武帝のとき護軍、建安12に改称。
――陳寿著、今鷹真・小南一郎・井波律子訳『三国志』(「世界古典文学全集」24A「魏書」、B「蜀書」、C「呉書」、筑摩書房、1977~1989年)より引用
それでは以下、越智重明「領軍将軍と護軍将軍」(前掲)の纏めである。
一、以下、文中の語句は、論文の仕様に従うこととする。
一、論文は旧字体で書かれているが、本稿では新字体に改めた。
一、用語解説の代わりとして、各用語にはコトバンクのリンクを附した。
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はしがき
問題提起として、先学の業績は、民兵と官兵の関連性(兵士の性格)や武将と兵士、地方官と兵士の関連性に重点を置き、全国の軍団や兵士を統括する制度の研究があまり進められていないとする。
そのため、この研究では全国の軍団や兵士を統括する制度を解明する一段階として、領軍将軍と護軍将軍をとりあげるとする。
1.領軍将軍、護軍将軍の生成
まず後漢末期、曹操が相国になったころ、領軍と護軍という官位があり、これを改名してそれぞれ中領軍、中護軍とした。その後、文帝が魏王朝を興し、初めて領軍将軍を設置し、次の明帝が初めて護軍将軍を設置したとしている。
よって、中領軍と領軍将軍、中護軍と護軍将軍の関係性は資(官位の軽重)の区別としている。
2.魏晋宋斉の護軍将軍
徐々に護軍将軍は自らの営(=護軍営)の支配だけでなく、外軍も支配するようになったため、まず護軍将軍の外軍支配の実情を明らかにする。
Ⅰ 魏・西晋の外軍
外軍とは何か。中央軍(中軍)の構成の一部か、地方軍の総称か議論が分かれているうえで、筆者は中央軍=外軍+内軍とし、外軍は地方軍と関係ないとしている。
そして内軍と外軍の違いというと、駐留する場所が洛陽城内か洛陽場外か、という違いである。また、内軍は洛陽城内で宿衛を任じられるもの、外軍は洛陽場外で宿衛軍以外のものと推測できる。そして、兵士の質は内軍が圧倒的に精鋭だったらしい。
さらに、この内外軍は魏の末期になると司馬氏の「私兵」になり、政敵である皇族曹氏を排除し、265年に西晋王朝が建国される礎を築くことになる。
Ⅱ 魏西晋の外軍と護軍将軍との関係
ここから、外軍と護軍将軍の関係性である。
護軍将軍は自らの宿衛軍である護軍営を支配している。
しかし、魏末になると、恒常的にではないが、護軍将軍が外軍を統べたという史実が浮かび上がってくる。
また、護軍将軍が領軍将軍の人事を助けたという記事があり、護軍将軍が領軍将軍の次官的な存在であったことが窺える。護軍将軍が、領軍将軍の統べる五校(1)、武衛(2)、中塁(3)という三塁(全て中軍)の諸将軍に何らかの支配的影響を及ぼしていたこともわかってきた。
つまり、魏晋時代は、護軍将軍の外軍支配は恒常化していなかったのである。
こぼば野史の注釈及び用語解説
(1)中軍内の官位、屯騎校尉(宿衛を司る)、歩兵校尉(同左)、越騎校尉(同左)、長水校尉(同左)、射声校尉(同左)の5つの校尉を指すか。
(2)武衛将軍(禁旅を司る)の略。
(3)中塁将軍(宿衛を司る)の略。
Ⅲ 東晋宋斉の外軍
魏晋(西晋)の次の漢族王朝である東晋・宋(南朝宋)・斉(南朝斉)、さらに続く梁・陳も、外軍と内軍が中央軍を構成している(外軍は地方軍とは関係ない)という見方は間違いないらしい。
但し、外軍が、魏晋時代のように、洛陽場外にあったものを指すのか、本質的な外軍の流れを汲む営兵を指すのみなのか、建康城(1)内外の営兵にあるのか、いまいち決定できないらしい。
こぼば野史の注釈及び用語解説
(1)東晋以降は江南一帯を支配した王朝。華北は八王の乱及び永嘉の乱で五胡(匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の5つの異民族)の侵入を招き、五胡十六国時代を形成する。この混乱を避けて移住してきた司馬氏の残党が興した王朝が東晋王朝。よって、都は洛陽ではなく、江南の中心地、かつて孫呉王朝の都だった建業を改称して建康になる。
Ⅳ 東晋南朝軍制における護軍将軍の外軍支配と地方郡統御
Ⅲでは中央軍の性質はあまり変わらないとしたが、軍制上には大きな変化があり、護軍将軍の性格にも大きな変化が生じた。
曹操は地方に軍隊を置くことを好まず、なるべく自らの直属の軍隊とし、事件があれば派遣するという体制を採った(1)。魏王朝建国後、その大部分が洛陽に移り、それが禁軍=中央軍を形成した。しかし、徐々に地方に軍隊が置かれるようになり、西晋ではさらに増加したらしい。よって、中央軍と地方軍の強弱が、かつては中央軍>地方軍だったのが、東晋以後は中央軍<地方軍という図式に変わったとする。
南朝に入り、上記のように地方軍が増強する中で、護軍将軍が恒常的に外軍を支配するようになった。
特に東晋に入ってから、護軍将軍が地方長官(四征将軍や四平将軍、都督や刺史)に勲簿を求めた記事があることがそれを物語っている。
宋の初めには、護軍将軍が恒常的に地方軍(地方長官の率いる軍)の支配を行うことが確実になった記事が見える。
こぼば野史の注釈及び用語解説
(1)曹操の拠点は鄴城である(曹操の封建された土地)。かつて戦国時代の魏の都であったことから、曹氏の王朝を「魏」と呼ぶ。また、戦国時代の魏との混同を避けるために、曹氏の魏王朝を「曹魏」と呼ぶ。
3.魏晋宋斉の領軍将軍
この節は領軍将軍が宋斉時代に中軍=内軍をすべて支配するようになった過程を考察するにある、としている。
Ⅰ 魏の領軍将軍
魏王朝では、領軍将軍が護軍営も支配していたのは、2節Ⅱ章で述べた。要するに魏王朝では、領軍将軍が中央軍の中の領軍営を支配していたのとともに、中央軍の他の宿衛軍も支配していたことを説明してくれている。
Ⅱ 西晋の領軍将軍
文帝即魏王位、魏始置領軍。主五校中塁武衛三営。晋武帝初、省。使中軍将軍(1)羊祜(2)統二衛前後左右驍騎将軍七軍営兵。即領軍之任也。
訳)文帝曹丕が魏王位に就き、魏の初めに領軍を置いた。五校・中塁・武衛の三営を主な官職とした。西晋の武帝司馬炎は初めに省いた。中軍将軍の羊祜に衛将軍2人と前将軍・後将軍・左将軍・右将軍の4人、驍騎将軍1人の7つの営兵を統率させた。要するに(これが)領軍の職務である。
――『宋書』巻40百官志下
魏王朝(明帝の治世)で領軍将軍が置かれたのは1節で述べたが、西晋王朝でも領軍将軍が置かれたらしい。これによって、
①魏王朝以来の領軍将軍と西晋王朝で置かれた領軍将軍の2つがあることになるが、これはどういうことなのか
②引用した『宋書』にある「西晋の武帝司馬炎は初めに省いた。」は何を省いたのか
③同じく引用した『宋書』の「要するに(これが)領軍の職務である。」の職務はいったい何か
について言及する。
①は領軍将軍が2つあり、2人の人物が就いていた。しかし、268年にまず魏王朝以来の領軍将軍が廃止され、北軍中候に代わった。よって、魏王朝以来の領軍将軍が無くなり、西晋王朝で置かれた領軍将軍に一本化された。
後、永嘉の乱で有名な元号、永嘉年間にさらに北軍中候は中領軍と改称される。
②の「省く」は①を見て明らかであるように、魏王朝以来の領軍将軍の支配にあった三営(五校・中塁・武衛)を、魏王朝以来の領軍将軍の廃止に伴って、廃止したと見るべきである。
③はほとんど七軍を統率していたとするが、この記事が『宋書』であることから、その当時の制度を無理に西晋の制度に当てはめた可能性が指摘されている。具体的いうと、後将軍に官職者のない時期、右将軍に官職者のない時期があり、羊祜自身が統率していたのは5つの兵団の可能性がある。
こぼば野史の注釈及び用語解説
(1)越智先生は『晋書』巻36羊祜伝を引いて、中軍将軍は中領将軍の誤りとしている。
(2)字は叔子。豪族、泰山羊氏の出身で、司馬氏との血縁もあった。西晋の天下統一前に亡くなったが、天下統一の礎を築いた。孫呉王朝の陸抗(陸遜の子)との故事(羊祜通和)が有名。
Ⅲ 東晋における領軍将軍の職任の拡大
前章で領軍将軍は2つの衛将軍と前後左右の将軍及び驍騎将軍を統べることになっていた。
しかし、東晋王朝以降は変わり、前後左右の将軍の統率はせず、材官(1)の軍を統率することが多くなっていた。このように述べると、南朝宋などもそうであるかに見えるが、東晋王朝のみの現象らしい。
南朝宋では領軍将軍は内軍全てを支配するようになったらしい。
この前後左右の将軍、左将軍は游撃将軍に改称され、前後右は鎮衛将軍と改称されたが、実態はあまり変わらず、鎮衛将軍は領軍将軍の支配下にあった。確実な証明ができないが、游撃将軍も領軍将軍の支配下にあっただろうという見方が想像できる。
仮にそうでなくとも、領軍将軍が衛将軍2人と鎮衛将軍3人、驍騎将軍1人の6軍を支配しているため、宿衛軍の大部分、要するに中軍の大部分を支配していたという証拠になる。
そして、この6軍はすなわち禁軍であり、
・中軍
・全中央軍
の2つの意味合いがあった。
また、両晋王朝ではもともとは領軍将軍は護軍将軍を支配していない。よって、この6軍は全ての禁軍から護軍将軍の統べる外軍を除いたもの、ほぼ中軍にあたるとしている。
領軍将軍は全中軍の支配者になっていることがわかる。
こぼば野史の注釈及び用語解説
(1)将軍号はないが、能力や才能のある武官の総称。
Ⅳ 宋斉における領軍将軍の職権
2節Ⅲ・Ⅳ章で述べた通り、内軍は中・外軍の構成であり、中央軍(=禁軍=中・外軍)と地方軍に分かれていた。さらに地方軍が護軍将軍の支配下にあったことも2節Ⅳ章で述べた。
また、南朝宋になると、領軍将軍が護軍将軍に支配力を及ぼしつつあったらしい。領軍将軍が護軍将軍を通して地方軍の支配を画策したのである。しかし、内軍は「外軍+地方軍」以外のものと考えるのは前章で述べた。
よって、南朝宋において、領軍将軍は全内軍=全中軍を支配するようになった。
前章の6軍(1)が南朝宋以降も存続しており、全中軍と護軍は全中央軍となっている。
こぼば野史の注釈及び用語解説
(1)ここの6軍は構成が変わっており、領軍将軍中領軍、護軍将軍中護軍、衛将軍2人(左衛将軍、右衛将軍)、驍騎将軍、游撃将軍の6つである。
Ⅴ 宋斉における領軍将軍の地位
この節の2つ目の目的、梁陳時代に内軍を統べるに留まらず、外軍、地方軍も支配し、天下の軍隊すべてを支配するに至った過程を考察するにあるらしい。
この章はその前段階である。
前章までに、領軍将軍が全中央軍を支配下に置いたということを追ってきたとともに、護軍将軍を介して地方軍の支配者になる方向性を位置づけた。
よって、領軍将軍の地位も徐々に高まるようになった。
しかし、諸王が将軍号を冠せられれば、領軍将軍の地位はそれに及ばなかったらしい。
南朝宋はこの魏晋南北朝時代では比較的皇帝権力の強い時代であるため、「皇帝-皇親-素姓上級士大夫-素性下級士大夫」のヒエラルキーが確立され、領軍将軍よりも低い地位でありながら皇親であるため、敬意を表すという逆行した制度になっているのは興味深い。
例えば、衛将軍は領軍将軍の支配下であり、護軍将軍の支配を受けていないが、衛将軍が敬意を表しているのは、上記のヒエラルキーがあったからといえる。
4.梁陳時代の領軍将軍
前節まで、護軍将軍が外軍の支配者になり、さらに地方軍の支配者になったこと、領軍将軍が中軍=内軍の支配者になると同時に、護軍将軍より上位の地位を得たことを述べた。領軍将軍が全国軍を管轄する地位となったということだが、この節は梁王朝にそれが確立したことを論じている。
梁王朝では領軍将軍、護軍将軍とも地位(1)の上昇が目覚ましい。これは皇帝支配の一端と考えることができる(2)。
この地位の上昇は、地方軍=国軍の中心となったことで必然的に起こったが、これは形式的なもので、刺史とその州兵が私兵的性格を帯び、反「国家」的勢力を形成するようになった。
よって、領軍将軍の支配は、実質的に瓦解していき、刺史は州鎮勢力として自律的独立的性格を強め、皇帝の側近である寒人層が外監、制局監として領軍将軍の権限を制限したのである。
こぼば野史の注釈及び用語解説
(1)ここでいう地位とは、すなわち九品官人法(九品中正制度)の「官品」である。宋王朝では領軍将軍・護軍将軍ともに第3品だったが、梁王朝では第2品に昇格している。詳しくは宮崎市定『九品官人法の研究――科挙前史』(「東洋史研究叢刊」1、東洋史研究会、1956年。のち『宮崎市定全集』6、岩波書店、1992年、中央公論社、1997年)参照。
(2)一方で、官品がさらに上の地位に太尉、大司馬という名誉職、開府儀同三司などがある。
5.領軍将軍、護軍将軍と武官の人事
領軍将軍と護軍将軍の支配には、武官の人事を掌握したという点が最も大きいらしい。
これは後漢末期(実質的に曹操が権力を掌握)に始まり、魏王朝では護軍将軍が行う人事に領軍将軍が最終責任を持つという構造を確立した。前節で述べた上位の官品にも通用するものである。
しかし、晋王朝では、3節3章で述べた通り、領軍将軍は護軍将軍を支配していないため、護軍将軍の人事を掌握できなくなる。そのため、護軍将軍が人事を掌握しており、この現象は宋王朝まで及ぶ。
一方で領軍将軍であるが、官品の高い武官の人事を掌握したような記事が見える。ただし、低い官品の武官の人事も行ったという記事も見えることから、前代と変わらず、領軍将軍が長官に立ち、護軍将軍が次官的な立場で人事を行ったとされる。
梁王朝や陳王朝も同様だったらしい。
6.外監、制局監
領軍将軍が全国軍を支配するようになっても、それは一筋縄ではいかず、地方軍の自律的独立的勢力が強く、地方軍支配が形骸化することが多かった、というのは4章で述べた通りである。
他にもう1つ、皇帝の寒人側近である外監と制局監による領軍将軍の権限の制限があった。
本節では外監と制局監について言及する。
宋王朝中期から外監も制局監も領軍将軍に属するようになった。
因みに外監の職は兵器や兵役を掌握することであり、制局監も同様らしい記事が見える。
しかし、領軍将軍に属しているが、これは制度上のものであり、現実には職権が拡大されていたらしい。
この寒人側近の活躍は、皇帝が上級官人である士大夫層に距離を置いたことを物語り、このことによって、正常な官僚制が破綻したことを意味するようになる。
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おわりに
今回の投稿はかなり深い、難しいものになってしまった。
が個人的には収穫が多いものだった。『三国志』や『晋書』を読んでいると、頻繁に「都督中外諸軍事」の言葉を見、ただの都督号だとスルーしていたが、このような意味があったと気付けたのは大きい。
また、羊祜の地位「北軍中候」の意味も知れてよかった。
正直、東晋王朝と南朝の歴史については概説的にしか理解しておらず、この論文を読んでも理解に乏しい箇所が多くあったが、軍制史、将軍号・都督号の一端が知れて非常に良かった。
これで論文精読して投稿するのは2回目であるが、次回以降、図表を交えて書いたほうが、理解がしやすいだろう、というのもわかった。極力、取り入れていきたい。
それでは今回はこの辺で。
頓首頓首。
〈本稿の参考文献〉
川勝義雄『魏晋南北朝』(講談社、1974年)
陳寿著、今鷹真・小南一郎・井波律子訳『三国志』(「世界古典文学全集」24A「魏書」、B「蜀書」、C「呉書」、筑摩書房、1977~1989年)のうち1993年に出版された文庫版8冊目