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芥川龍之介の『僕は』をどう読むか

 天才芥川、自殺者芥川、女好き芥川、神経衰弱芥川、時代の寵児芥川、そんなどうしても拭いきれないものを作品におっかぶせて読む愚を、私はずっと否定し続けてきたような気がする。確かに多くの作品にその天才が見られるものの、天才に目が眩んでいては何も見えなくなる。

誰でもわたしのやうだらうか?――ジュウル・ルナアル

(芥川龍之介『僕は』)

 ある部分はそうであろうし、違うところもあるだろう。

 僕は樹木を眺める時、何か我々人間のやうに前後のあるやうに思はれてならぬ。
     ×
 僕は時々暴君になつて大勢の男女を獅子や虎に食はせて見たいと思ふことがある。が、膿盆の中に落ちた血だらけのガアゼを見ただけでも、肉体的に忽ち不快になつてしまふ。
     ×
 僕は度たび他人のことを死ねば善いと思つたことがある。その又死ねば善いと思つた中には僕の肉親さへゐないことはない。

(芥川龍之介『僕は』)

 日向の樹木ならば日が当たるのが前で、日が当たらないのが後ろだと普通に思っていた。
 人が獣に食われるのは見たくない。血は怖い。
 肉親の死を望んだことは無い。

 僕はどう云ふ良心も、――芸術的良心さへ持つてゐない。が、神経は持ち合せてゐる。
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 僕は滅多に憎んだことはない。その代りには時々軽蔑してゐる。
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 僕自身の経験によれば、最も甚しい自己嫌悪の特色はあらゆるものに嘘を見つけることである。しかもその又発見に少しも満足を感じないことである。

(芥川龍之介『僕は』)

 私はなにがしかの良心を持ち、天罰を恐れている。子供はいないが、子供から見て「はずかしいふるまい」は出来るだけ避けたいと思う。チンピラやくざや悪役にはなりたくない。
 私は簡単に人を憎む。軽蔑は難しい。できればそうしたいがまずは憎む。そしてすぐに忘れてしまう。
 そうそう、あさましい嘘を発見すると軽蔑する。

 僕はいろいろの人の言葉にいつか耳を傾けてゐる。たとへば肴屋の小僧などの「こんちはア」と云ふ言葉に。あの言葉は母音に終つてゐない、ちよつと羅馬字に書いて見れば、Konchiwaas と云ふのである。なぜ又あの言葉は必要もないSを最後に伴ふのかしら。
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 僕はいつも僕一人ではない。息子、亭主、牡、人生観上の現実主義者、気質上のロマン主義者、哲学上の懐疑主義者等、等、等、――それは格別差支へない。しかしその何人かの僕自身がいつも喧嘩するのに苦しんでゐる。
     

(芥川龍之介『僕は』)

 私はまいばすけっとの店員が「いらっしゃいませ」を「しゃーせ、あしゃーせ」というのを聴いている。それが後輩に遺伝するのも。
 私は平野啓一郎の分人主義に呼応するほどの人格を持ち合わせない。ペンネームの数だけ書き分けがあるだけだ。

 あらゆる言葉は銭のやうに必ず両面を具へてゐる。僕は彼を「見えばう」と呼んだ。しかし彼はこの点では僕と大差のある訣ではない。が、僕自身に従へば、僕は唯「自尊心の強い」だけである。
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 僕は医者に容態を聞かれた時、まだ一度も正確に僕自身の容態を話せたことはない。従つて嘘をついたやうな気ばかりしてゐる。
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 僕は僕の住居を離れるのに従ひ、何か僕の人格も曖昧になるのを感じてゐる。この現象が現れるのは僕の住居を離れること、三十哩前後に始まるらしい。

(芥川龍之介『僕は』)

 私はさしたる自尊心を持たない。こき使い、いじめ尽くしている。
 私は医者を言葉巧みに誘導し自分の見立てにそう判断に導こうとする。そのためには歯がかゆいとも言う。医者は歯にかゆみを感じることはありませんという。歯医者でもないのに。
 私は距離をマイルでは勘定しない。飛行機に乗ると人格が曖昧になるかもしれない。

 僕の精神的生活は滅多にちやんと歩いたことはない。いつも蚤のやうに跳ねるだけである。
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 僕は見知越しの人に会ふと、必ずこちらからお時宜をしてしまふ。従つて向うの気づかずにゐる時には「損をした」と思ふこともないではない。
(大正一五・一二・四)

(芥川龍之介『僕は』)

 私の精神生活は……精神生活なんてものがあるとは考えもしなかった。そんなものがあるとして跳ねも歩きもしない。たぶんぐるぐる渦を巻いている。
 私はお辞儀をスルーされるとホッとする。余計な会話をしなくていいし、義理は果たしたことになるから。

 私は芥川龍之介とこんなに違う。しかしそんなに違わない気がする。そして芥川龍之介を異常者だとか狂人だとか思わない。案外普通なのではないかと。お前なんぞに何が解るものか、と言われても困る。そりゃ、両親を虎に食わせたら異常だが、この程度のことは私でない誰かと少しずつ一致するだろう。
 天才=変人というのはあさはかな偏見だ。外見の怪異なるものに特殊な能力があると見做す伝統も偏見だ。

 そしておそらくこの答え合わせが日によって変わるように、ここには嘘ではない偶然が紛れ込んでいる。

 そうでなければ……「何人かの僕自身がいつも喧嘩する」わけはないのだ。その矛盾ごと「僕」なのだろう。




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