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芥川龍之介の『後世』について① 遊戯三昧の境に安んぜんかな
時々私は廿年の後、或は五十年の後、或は更に百年の後、私の存在さへ知らない時代が来ると云ふ事を想像する。その時私の作品集は、堆うづだかい埃に埋もれて、神田あたりの古本屋の棚の隅に、空しく読者を待つてゐる事であらう。いや、事によつたらどこかの図書館に、たつた一冊残つた儘、無残な紙魚しみの餌となつて、文字さへ読めないやうに破れ果てゝゐるかも知れない。しかし――
私はしかしと思ふ。
しかし誰かゞ偶然私の作品集を見つけ出して、その中の短い一篇を、或は其一篇の中の何行かを読むと云ふ事がないであらうか。更に虫の好い望みを云へば、その一篇なり何行かなりが、私の知らない未来の読者に、多少にもせよ美しい夢を見せるといふ事がないであらうか。
私は知己を百代の後に待たうとしてゐるものではない。だから私はかう云ふ私の想像が、如何に私の信ずる所と矛盾してゐるかも承知してゐる。
けれども私は猶想像する。落莫たる百代の後に当つて、私の作品集を手にすべき一人の読者のある事を。さうしてその読者の心の前へ、朧げなりとも浮び上る私の蜃気楼のある事を。
何度読んでも、読み返しても、いつもこの言葉の前では立ち止まらざるを得ない。その度毎に一人の読み手として、また書き手として、さまざまなことどもを思う。
芥川の未来予想は外れた。芥川龍之介は作家としては恵まれていた。評価され続け、今でも人気者だ。
しかしまたこうも思う。私が芥川に関して何か書いていることから、noteのマイページにはおすすめ記事として芥川について書かれた他人の記事が挙がってくる。別の作家に関して何度もそういう経験をしているので普段はやらないのだが、つい十人ばかり、記事を読んでみた。
ひどいありさまだ。
なかにはそれが「芥川」について書かれたものでありながら「芥川」という文字を「豆腐」に置換してさえ成立しそうな、おおよそ中身のない、寧ろ曲芸的な「無感想文」もあった。
同じことを芥川龍之介自身がやったとしたら、やはり「これは……」と思うのではなかろうか。
それは勿論「芥川賞」や「文豪ストレイドッグス」でかさ増しされた「芥川ファン」なるものの手によるものなのであろうが、そうしたものの「量」に埋もれて、まず正確に「あらすじ」を掴んでいる読み手の姿が見えない。書き手の方はなお悲惨である。悉くこのレベル以下だ。
芥川が期待した蜃気楼はもう少し濃いのではなかろうかと。
昨日私は『魚河岸』に関して「時代錯誤性を帯びた雅号で呼び合う」意味を指摘した。
芥川に『後世』と名づく作の二つあり、今一つは、
後世
君見ずや。本阿弥の折紙古今に変ず。羅曼派起つてシエクスピイアの名、四海に轟く事迅雷の如く、羅曼派亡んでユウゴオの作、八方に廃るる事霜葉に似たり。茫々たる流転の相。目前は泡沫、身後は夢幻。智音得可からず。衆愚度し難し。フラゴナアルの技を以太利イタリイに修めんとするや、ブウシエその行を送つて曰く、「ミシエル・アンジユが作を見ること勿れ。彼が如きは狂人のみ」と。ブウシエを哂つて俗漢と做す。豈に敢て難しとせんや。遮莫千年の後、天下靡然としてブウシエの見に赴く事無しと云ふ可らず。白眼当世に傲り、長嘯後代を待つ、亦是鬼窟裡の生計のみ。何ぞ若しかん、俗に混じて、しかも自ら俗ならざるには。籬に菊有り。琴に絃無し。南山見来たれば常に悠々。寿陵余子文を陋屋に売る。願くば一生後生を云はず、紛々たる文壇の張三李四と、トルストイを談じ、西鶴を論じ、或は又甲主義乙傾向の是非曲直を喋々して、遊戯三昧の境に安んぜんかな。(五月二十六日)
※寿陵余子 にょろにょろ君 芥川龍之介のペンネーム。
※張三李四
ちょうさん‐りし【張三李四】(チャウサン‥)
(中国に多い姓である張氏・李氏の三男四男の意)その辺にいくらでもいるありふれた人。身分もなく名もない人々。平凡な人。熊公・八公の類。
……とむしろもう一つの『後世』と真逆の立場だ。
その『後世』を含む『骨董羹』にこうある。
雅号
日本の作家今は多く雅号を用ひず。文壇の新人旧人を分つ、殆ど雅号の有無を以てすれば足るが如し。されば前に雅号ありしも捨てて用ひざるさへ少からず。雅号の薄命なるも亦甚しいかな。
もう雅号は古いのだ。そう芥川自身が念押ししている。だから私は『魚河岸』に関して「時代錯誤性を帯びた雅号で呼び合う」意味を指摘した。しかし私は谷崎潤一郎の「胡蝶羹」は「骨董羹」ではないかとは書かない。
ラビオリだとも書かない。
自分に残された時間を考えるとできる事はそう多くない。ただ正しく読み、正しく書く、それだけに集中したい。
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