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谷崎潤一郎の『美食俱楽部』を読む 咳唾玉をなす

 よくよく考えてみるとアヘン戦争というのは無茶苦茶な戦争だった。ある意味では核攻撃よりも、あるいは今回のあれより酷い戦争だったと言えるかもしれない。こんな屈辱的な戦争はほかに見当たらない。まさに鬼畜の所業だ。今、ナチスやアウシュビッツ、原爆などを批判する声はあるが、アヘン戦争の責任は問われることがない。しかしよくよく考えてみれば、日露戦争にしても英国にやらされたようなものだ。英国は酷い。…まあ、この『美食倶楽部』という小説に浙江會舘のアヘン部屋というものがでてきて、そういえばアヘン戦争って…と思い出しただけの話なのだが、そもそも日本で会員制クラブの中だとしてもアヘン部屋ってどうなのだろうと、ちょっと考えてしまった。作品の中では芸術の域に達した美食はアヘンより危険だという、話になる。

 なるほどこの作品でも性欲と交換可能な記号として美食が持ち出される。そうしてみて谷崎が変態性欲のヴァリエーションを芸術の一つとして捉えていたことが再確認できる。

 前回私は『柳湯の事件』に関して、天才が努力している、お勉強していると書いた。ヌラヌラ派は単なる変態性、嗜好ではなく、自分の中から溢れ出したものではなく、外部から取り入れたものではないかと。それは「心太、水飴、チユープ入りの練齒磨、蛇、水銀、蛞蝓、とろゝ、肥えた女の肉體」が交換可能な記号として羅列されており、「體中へどろどろした布海苔を打つかけて足蹴にしたり」することがプレイとして成立しているとするならば、村上春樹的僕木装乳社製的セクシャルインターコースはむしろ下等動物の衝動でしかなく、とろヽプレイこそは芸術に属するのではないかと考えたからである。

 学校に忍び込み、ホイッスルを盗んだという事件が昨日報じられた。これはフェティシズムと呼ばれる頓智である。何かを何かの象徴と見做すこと、この抽象化能力によって人間は言語的世界を獲得した。谷崎は明らかに何かと何かが交換可能であることを試している。『美食俱楽部』では、美食の芸術を探究する。いわば思考実験である。

伯爵の頭には始終此の言葉が往來して居た。それを味はふことに依つて、肉體が蕩け魂が天ヘ昇り待るやうな料理―それを聞くと入間が踊り狂ひ舞ひ狂つて、我ひ死に死んでしまふ音楽にも似た一(谷崎潤一郎『美食俱楽部』)

 こうした舞い狂い死ぬ話は、『金色の死』に登場した。小説を書くのかと思っていたら、テーマパークをつくってしまう話だった。つまり「あれとこれとをとりかえること」「あれとこれとはとりかえられるということ」が繰り返し書かれてきたと言うことになる。

 筋としてはさして起伏がない。美食家のG伯爵が、米騒動の騒ぎもまださめやらぬ大正八年にうまい中華料理を求めて浙江會舘を訪れ、阿片喫煙室から宴会の様子を覗き、料理に対する創意と才能に長足の進歩を遂げる。伯爵はインスピレーションに依ると嘯き、毎晩伯爵の主催で美食の宴が催されるようになる。それは単なる支那料理とは異なるものだった。

 たとへば其の中の鷄粥魚翅の如きは、普通に用ふる鷄のお粥でもなければ鮫やうかんふとうめい窖とひれの鰭でもなかつた。たゞどんよりとした、羊羹のやうに不透明な、鉛を融かした重苦しい、素的に熱い汁が、偉大な銀の井の中に一杯漂うて居た。人々は其の井から發散する芳烈な香氣に刺戟されて、我れ勝ちに匙を汁の中に突込んだが、口に入れると意外にも葡萄酒のやうな甘みが口腔へ一面にひろがるばかりで魚翅や鷄粥の味は一向に感ぜられなかつた。
「何だ君、こんな物が何處がうまいんだ。變に甘つたるいばかりぢやしいか。」さう云つて氣早やな會員の一人は腹を立てた。が、その言葉が終るか終らないうちに、其の男の表情は次第に一變して、何か非常な不思議な事を考へついたか、見附け出しでもしたかのやうに、突然驚愕の眼を驚愕の眼を睜つた。と云ふのは、今の今まで甘つたるいと思はれて居た口の中に、不意に鷄粥と魚翅の味とがしめやかに舌に沁み込んで來たのである。(谷崎潤一郎『美食俱楽部』)

 これは汁の味を味わう料理ではなく、「噫」を味わう料理だったのだ。つまり料理が交換可能な記号なら、これは小説作法でもある。書いてあることはさらりとしている。表面的には山も落ちも意味もない。そう思えたところで「噫」として出てくるところの味を楽しみたまえと谷崎は云いたいのだろう。伯爵はその製法を魔術だと言い張る。確かに、『法成寺物語』などを読むと、よくぞあれとこれとを結びつけて藤原道長で面白い設定を拵えたなと感心する。一直線のお勉強では辿り着けないところで書いている。

 また『あくび』なども、狙いとしてはシンプルながら、よくそういう仕掛けにしようとしたなと感心する作品である。タイトルが絶妙であるだけではなく、構成が面白い。

 まあ、魔術と云われれば、確かに魔術なようなものを書いている。

 火腿と云ふのは一種のハムである。白菜と云ふのは、キヤベツに似て白い太い莖を持つた支那の野菜である。(谷崎潤一郎『美食俱楽部』)

 こう書かれて改めて調べてみると日本では白菜はそう昔からあったものではないことが解る。この火腿白菜は宴会の最後に味わう料理だ。会員は暗闇で三十分立たされた後、女と差向いになり、顔を撫でまわされ、蟀谷をぐりぐりされ、瞼の上を蔽われ、鼻の両側をさすられ、つまり顔のマッサージをされて、口をいじくりまわされ、口の中に突っ込まれた女の指の股から湧いて出るぬらぬらした汁を味わうものなのだ。

「さうだ、明かにハムの味がする、而も支那料理の火腿の味がするのだ。」(谷崎潤一郎『美食俱楽部』)

 その手はいつか白菜だか人間の手だか解らないものになる。噛むと白菜であるが人間の手のように動く。会場が明るくなると女の姿はない。伯爵は「真の美食を作り出すのには、魔法を用ふるより外に道がない」という。そして谷崎は抜群の結びを見せる。

此の頃では、彼等は最早や美食を「味はふ」のでも「食ふ」のでもなく單に狂つて居るのだとしか見受けられない。氣が違ふか病死するか、彼等の運命はいづれ遠からず決着する事と作者は信じている。(谷崎潤一郎『美食俱楽部』)

 ここには自殺と宗教がない。いやそもそも芸術とは真面な世界ではなく、ゆっくりとした自殺のようなものであり、芸術教に溺れるようなふるまいだからだろう。究めれば氣が違う。高じれば病死する。よくある誤解だが「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」という夏目漱石の『行人』の一郎の台詞は「結論」ではないのだ。その台詞の直後に「気違」の一択になる。どうもこのあたりの極めて当たり前の読解というものがどこかへ行ってしまった人が、いかにも難しそうな話をこねくり回すので困ってしまうが、氣が違うことはけして「失敗」とか「破綻」とか「挫折」ではない。それは「不味いこと」「困ったこと」ですらないかもしれない。白菜だか人間の手だか解らないものを暗闇でかじることは真面ではない。しかし我々はいくばくかの金を支払い、暗闇で、嘘の画像を見せられて楽しむことをしていないだろうか。そもそもそんなことが真面ではないことすら、みんな忘れてしまい、今更それが妙なことだとは考えられなくなっているのではないのか。

 本を読んでにやにやするご主人は、猫にとっては不思議なもの、頭の可笑しい生き物だろう。谷崎潤一郎作品を読むこと、これは既に高麗女肉を味わうような頭の可笑しいふるまいなのである。

【余談①】『美食倶楽部』の言葉たち

東坡肉 浙江料理として有名

赤坂の三河屋

アストラカンの襟

桔槹 はねつるべ

しまうた家 しもうた家  今までの商売をやめた家。 廃業した家。 しもたや。  商家ではない一般の家。

紅焼海参 なまこの煮込み

散り蓮華 中国や東南アジアで一般に用いられる陶製スプーン(匙)の日本での呼び名。

蹄筋の干物 アキレス腱の干物

チヨツ 牧野信一がよく使う。

松江 松江省

蹣跚 まんさん 足もとがよろめくさま。

龍眼肉

燕菜 ウミツバメの巣。燕巣。燕窩。

奶湯 白く濁ったスープ。

南京花火 クラッカー?

Gastoronomer   gastronomer  美食家 ガストロノマア

オピアム 精神を麻痺(まひ)させるもの。

アヘン戦争

清湯燕菜 清汤燕菜


鶏粥魚翅

蹄筋海参

炸八塊 からあげ

龍戯球?

火腿白菜 火腿炖白菜? 白菜とハムの煮込み? 炒め物?

抜絲山樂 大学芋?

玉蘭片 干し筍

雙冬笋 キノコと筍の炒め物?

高麗女肉 女肉の天麩羅

鴿蛋溫泉 鳩の温泉卵?

葡萄噴水 シャンパンタワー?

咳唾玉液 美人の涎?

雪梨花皮

紅燒唇肉 魚の唇と豚肉の煮込み?


胡蝶羮 わからん 蝶の羹?

天鵞絨湯 深緑色のスープだと思うが、材料が解らない。

玻璃豆腐 中華風揚げ出し豆腐煮込み




 こりゃ凄い。














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