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芥川龍之介の『河童』をどう読むか⑫ 流し読みしていない?

 私はこれまで、小説を作家の告白と見做すことは無意味だと書き続けて来た。また芥川の小説を身辺雑記と見做すような吉田精一の「解説」など読解力不足からくる誤解に過ぎないと書いて来た。(書いて来たかな? 多分書いたと思う。それから国税局の配当計算シートのエクセルを作った奴はとんでもなく頭が悪いと書いて来た。何故なら所得額から税額を自動計算して間違っているとエラーメッセージを出す仕掛けなのに、所得額を入力しても税額が自動表示されない謎仕様だからだ。それから私は楽天証券の配当のcsvの仕様を考えたやつも馬鹿だと書いて来た。申告には所得税と住民税を別々に入力しなければならないのにわざと合算しているからだ。何の話だ?)

 それは小説には「ないことないこと」しか書かれえないという意味ではない。「ないことないこと」を書きながら、どうしてもどこかに「ほんとうのこと」が出て來るものだ。その「ほんとうのこと」とは確定申告に関する苦情ではない。例えばこのように書くことで、いかにも私がe-Taxで確定申告をしたかのように思わせることができるし、取引証券会社は楽天証券ではないかと思わせることができる。ではここはどうだろう。

 問 彼は予が詩集を贈らざりしに怨恨を含める一人なるべし。予の全集は出版せられしや?
 答 君の全集は出版せられたれども、売行甚だ振はざるが如し。
 問 予の全集は三百年の後、――即ち著作権の失はれたる後、万人の購ふ所となるべし。予の同棲せる女友だちは如何?
 答 彼女は書肆ラツク君の夫人となれり。
 問 彼女は未だ不幸にもラツクの義眼なるを知らざるなるべし。予が子は如何?
 答 国立孤児院にありと聞けり。
 トツク君は暫く沈黙せる後、新たに質問を開始したり。
 問 予が家は如何?
 答 某写真師のステユデイオとなれり。
 問 予の机は如何になれるか?
 答 如何なれるかを知るものなし。
 問 予は予の机の抽斗に予の秘蔵せる一束の手紙を――然れどもこは幸ひにも多忙なる諸君の関する所にあらず。今やわが心霊界は徐に薄暮に沈まんとす。予は諸君と訣別すべし。さらば。諸君。さらば。わが善良なる諸君。

(芥川龍之介『河童』)

 芥川龍之介が死後の世界をどのように考えていたかということは『死後』を読んでも解らないだろう。芥川はあちこちにキリスト教的死生観を振りまきながら、一方で『蜘蛛の糸』のような仏教的なものも弄んだ。さまざまなものを疑いながら、やはり『河童』で言うところの物質主義者であったのではないかと私は考えているが、これはなにかしかと根拠のある話でも無い。ただそんな感じがするという程度の話だ。
 私とて墓とか蘇東坡と位牌とか仏壇など何の意味もないと信じているからといって墓に小便をかけない程度の節度のようなものは持っている。
 芥川はやはり「幽霊」などに対しては懐疑的でありながら、『寒山拾得』などを読めばやはり、どこか尋常ならざる時空の捉え方が可能な人だったのではないかとは思う。
 この幽霊は松尾芭蕉と違って、やたらと死後のことを気にしている。その気にし方そのものはやはり『死後』に似ていて、その他細々としたところがまるでパロディでもあるかのように数々の言動と附合する。

 例えば

 答 君の全集は出版せられたれども、売行甚だ振はざるが如し。
 問 予の全集は三百年の後、――即ち著作権の失はれたる後、万人の購ふ所となるべし。予の同棲せる女友だちは如何?

(芥川龍之介『河童』)

 と云った下りは、

或声 しかしお前は安心しろ。お前の読者は絶えないだらう。
僕 それは著作権のなくなつた後だ。

(芥川龍之介『闇中問答』)

 この『闇中問答』の一節に非常に近接した意識の中にある。そして現在の状況を考えると笑えない。人は文字にお金を払わなくなった。しかし実際の本音はもっと生々しく小穴隆一が書いている通り、

 僕の家の勝手口からはいつてきた芥川は、いつもとちがつた明るい顏で言つた。
「僕はやつと安心したよ。僕の讀者は三千ある。僕が死んでも全集が三千は出るとやつとけふさう自信がついた。三千出れば死ねる。」

(小穴隆一『二つの繪』)

 この程度にささやかで現実的で物悲しいものであっただろう。

 また、この下りは、

 答 彼女は書肆ラツク君の夫人となれり。
 問 彼女は未だ不幸にもラツクの義眼なるを知らざるなるべし。予が子は如何?
 答 国立孤児院にありと聞けり。

(芥川龍之介『河童』)

 例えば『死後』のこの下りと、

「ええ、あたしと静やだけ。」
 妻は下を向いたまま、竹の皮に針を透していた。しかし僕はその声にたちまち妻の嘘を感じ、少し声を荒らげて言った。
「だって櫛部寓って標札が出ているじゃないか?
 妻は驚いたように僕の顔を見上げた。その目はいつも叱られる時にする、途方に暮れた表情をしていた。
「出ているだろう?」
「ええ。」
「じゃその人はいるんだね?」
「ええ。」

(芥川龍之介『河童』)

わが子等に
 一人生は死に至る戦ひなることを忘るべからず。
 二従つて汝等の力を恃むことを勿れ。汝等の力を養ふを旨とせよ。
 三小穴隆一を父と思へ。従つて小穴の教訓に従ふべし
 四若しこの人生の戦ひに破れし時には汝等の父の如く自殺せよ。但し汝等の父の如く 他に不幸を及ぼすを避けよ。
 五茫々たる天命は知り難しと雖も、努めて汝等の家族に恃まず、汝等の欲望を抛棄せよ。是反つて汝等をして後年汝等を平和ならしむる途なり。
 六汝等の母を憐憫せよ。然れどもその憐憫の為に汝等の意志を抂ぐべからず。是亦却つて汝等をして後年汝等の母を幸福ならしむべし。
 七汝等は皆汝等の父の如く神経質なるを免れざるべし。殊にその事実に注意せよ。
 八汝等の父は汝等を愛す。(若し汝等を愛せざらん乎、或は汝等を棄てて顧みざるべし。汝等を棄てて顧みざる能はば、生路も亦なきにしもあらず)

(芥川龍之介『遺書』)

 こうした遺書の下り、そしてやはり小穴隆一の、

 芥川は鵠沼で、「女房のおふくろが君、自分の亭主が死んだときに、誰もわたしに再婚しろと言つてくれる人がなかつたと、まるで怒つてでもゐるやうに言つてたよ。」と言つてゐたことがある。(塚本さんの旦那さんは初瀬の機關長、日露戰爭のとき艦の沈むに殉じて死んだ。芥川の話だと、兵學校、大學ともに首席で通した人。芥川は兵學校と言つてゐたが、機關學校の言ひちがひであらう。)芥川が死にたがつてゐると知つて、塚本さんがさういふことを口にしてゐるのは了解できるが、さういふことを言はれたためであるのかどうか、芥川の夫人に宛てた遺書のなかには、僕といつしよになれと書いてあつたのもあつてみせられたが、それでもつて僕は新原得二に「六ヶ月たつてみなければ……」といふ二つの意味をふくめた心外な嫌味を言はれてゐる。(芥川はこの實弟と實姉とは義絶せよと家人に書いてゐた。)多分芥川のところの年寄達も當時腹の中では、なにか新原と似た考へを持つたことであらうと思ふ。

(小穴隆一『二つの繪』)

 こういう記録と重ね合わせるとやはり「本音が出た」と云ったものではけしてないことが分かる。
 そもそも『河童』という小説そのものが、

 自決することを僕に言つてからの芥川は、□夫人の代名詞に、河童といふ言葉を使つてゐたが、後には□夫人以外の女人の話にも、雌河童といふ言葉を使つてゐるやうになつてゐた。□夫人は昔、芥川が彼女に一座の人達(日曜日で彼の家に集つてゐた人達)を紹介してゐたときに、ほかの人には順々にお時儀をしてゐながら、どういふ次第か、「わたし小穴さんには態とお時儀をしないの、」と、人に氣づかれないほどの小聲で、微笑をみせながら僕の顏いろをみてゐたので、大正十二年以前のことであるが、その一言で僕に「芥川となにかあるな、」と思はせてしまつてゐた人だ。

(小穴隆一『二つの繪』)

 という反フェミニズム小説ではあるが、そうした女人を指して雌河童という言葉を使うことそのものがちょっと人の悪い、冗談の好きな芥川の癖みたいなものなので、フェミニストの人も余り本気で怒らないでほしい。これはオフレコの話を小穴隆一が勝手にオープンにしてしまっただけなのだ。

 私はこの「予の机の抽斗に予の秘蔵せる一束の手紙」も、もしもそんなものが存在するのならば、既に漱石全集を見ていた芥川ならば、全て菊地寛や佐藤春夫らによって全集に収められるものとして予定していたものと考えている。芥川が「僕が死んでも全集が三千は出るとやつとけふさう自信がついた」という時、色んな記録が残るんだろうなという思いもあった筈だ。つまり死んでから出た全集が売れて欲しい、といった死後への期待。そういうものがあればこそ、遺書やら手紙で死というイベントを盛り上げ、多少は謎を拵えようとしたのではないか。

 芥川が『河童』で降霊を描くのも、霊魂の存在を信じていたからではなく、飽くまで「そう書いた方が面白いから」であろう。
 
 ちなみに、

 この問題に対しては、

 芥川の死後、下島空谷は芥川が淋病をもつてゐたことを人に言つてゐるが、多分それは龜井戸土産のものであらう。

(小穴隆一『二つの繪』)

 とあり、その他多くの誤解は、

南部修太郎と一人の女を(□夫人)自分自身では全くその事を知らずして共有してゐた。それを耻ぢて自決をする

(小穴隆一『二つの繪』)

 と云った話があまり面白くないところから生じているのだろう。

 僕はかう云ふ記事を読んだ後、だんだんこの国にゐることも憂鬱になつて来ましたから、どうか我々人間の国へ帰ることにしたいと思ひました。

(芥川龍之介『河童』)

 この「かう云ふ記事」とは冒頭に引用した降霊の記事である。さて「僕」は何故「かう云ふ記事」を「読んだ後、だんだんこの国にゐることも憂鬱になつて」しまうのか。

 流し読みしていなかった?

 逆に話の流れが分かっていた?

 分かっていたのに「全集云々には芥川の本音が出ている」とか書いていないよね、まさか。

 何故「かう云ふ記事」を「読んだ後、だんだんこの国にゐることも憂鬱になつて」しまうのか。それは「僕」が人間の世界に女友達と家と机を残してきたからではなかろうか。必ずしも女友達と家と机でなくてもいいんだけれど、まるで河童の国にいる自分があの世に行ったみたいになって、人間の国に遺してきたものが勝手に他人のものになって、自分の存在が人間の国で失われてしまうことが嫌だったわけだ。だから憂鬱になって人間の国に帰ろうとするわけだ。わざわざ霊を降ろして、全集云々の話をさせるのは河童の国と人間の国をあの世とこの世として比較させるためだよね。

 なんてことは人間の国の人は皆気が付いていましたよね。

 qua qua qua

 ならよろしい。


 まあ、とりあえず、今日は芥川の「ハ」に見える「い」だけ覚えて帰ってください。




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