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芥川龍之介の『悪魔』をどう読むか? 十字架の力によって諫められることがないものたちへ

 今はアニメ『チェンソーマン』が大人気らしい。この間まで『鬼滅の刃』や『ゴールデンカムイ』が評判になったと思ったら今度は『チェンソーマン』だ。いや『パリピ孔明』だってそこそこ人気なのだろうが、枕としては鬼と人間と悪魔の話にしたいので『鬼滅の刃』『ゴールデンカムイ』『チェンソーマン』の流れで考えてみたい。『鬼滅の刃』では鬼は人を食い、鬼に噛まれると人間は鬼になった。そして人間は鬼を切った。『ゴールデンカムイ』には鬼も悪魔も出てこない。ただ人間の変態同士が殺し合った。『チェンソーマン』では悪魔が人を食い、人間と悪魔の合いの子のようなチェンソーマンが悪魔を殺して行く。『チェンソーマン』に現れる悪魔はその姿は怪異なものもありそうでないものもあり、『ゴールデンカムイ』に現れる変態達と比べるとかなり真面な感じがするものもいる。『鬼滅の刃』の鬼たちは元々は普通の屈折した人間だったものが鬼となる。鬼の特徴は角よりもむしろ異常な目に現れる。その特殊能力を無視してしまえば、『鬼滅の刃』の鬼たちは人間の心を失った者たちだと言って良いかもしれない。

 芥川龍之介の『悪魔』に描かれる悪魔も、何が悪魔なのか判然としないくらい真面である。谷崎潤一郎の『悪魔』の悪魔が主人公に「洟の染みた手巾をしゃぶらせようとするもの」であるとしたならば、芥川龍之介の『悪魔』に描かれる悪魔はただ「堕落させたくないもの程、益堕落させたい」という矛盾した二つの心を持つものである。おまけにその顔は美しい。

「私はあの姫君を堕落させようと思ひました。が、それと同時に、堕落させたくないとも思ひました。あの清らかな魂を見たものは、どうしてそれを地獄の火に穢す気がするでせう。私はその魂をいやが上にも清らかに曇りなくしたいと念じたのです。が、さうと思へば思ふ程、愈堕落させたいと云ふ心もちもして来ます。その二つの心もちの間に迷ひながら、私はあの輿の上で、しみじみ私たちの運命を考へて居りました。もしさうでなかつたとしたら、あなたの影を見るより先に、恐らく地の底へでも姿を消して、かう云ふ憂き目に遇ふ事は逃れてゐた事でせう。私たちは何時いつでもさうなのです。堕落させたくないもの程、益堕落させたいのです。これ程不思議な悲しさが又と外にありませうか。私はこの悲しさを味はふ度に、昔見た天国の朗らかな光と、今見てゐる地獄のくら暗とが、私の小さな胸の中で一つになつてゐるやうな気がします。どうかさう云ふ私を憐んで下さい。私は寂しくつて仕方がありません。」
 美しい顔をした悪魔は、かう云つて、涙を流した。……

(芥川龍之介『悪魔』)

 美しい顔をした悪魔、矛盾した二つの心を悲しむ悪魔、それは前回述べた通り芥川龍之介作品の著しい特徴である逆説だ。天国を昔見たことがある悪魔ならやはり堕天使ということになろう。つまり「堕落させたくないもの程、益堕落させたい」という矛盾した二つの心が自らを堕天使とした運命を悲しんでいるのだ。醜い、恐ろしい、残虐な、攻撃的な、得体の知れないものとしての悪魔は描かれない。屈折も、変態性もない。これでは悪魔を責めようもない。案の定話者は、こう結ぶしかない。

 古写本の伝説は、この悪魔のなり行きを詳かにしてゐない。が、それは我々に何の関りがあらう。我々はこれを読んだ時に、唯かう呼びかけたいやうな心もちを感じさへすれば好いのである。……
 うるがんよ。悪魔と共に我々を憐んでくれ。我々にも亦、それと同じやうな悲しさがある。

(芥川龍之介『悪魔』)

 憐れむべきは悪魔だけではない。人間も矛盾した二つの心を持つものだ、とは昨日述べたとおりだ。

そして人間にはそういうところがあるもので「我々と彼等との差は、存外大きなものではない」、忠義の士であれ背盟の徒であれ、その人間の中にはそう単純でもないものがあるのだというのが逆説②。

 忠義の士と背盟の徒の差は大きなものではないとして、では芥川龍之介の『悪魔』に描かれる悪魔と人間との差はどこにあるのだろうか。いや、そもそも信長と我々にどんな差があるのだろうか。

 しかしそれらの悪魔の中で、最も我々に興味のあるものは、なにがしの姫君の輿の上に、あぐらをかいてゐたと云ふそれであらう。古写本の作者は、この悪魔の話なるものをうるがんの諷諭だと解してゐる。――信長が或時、その姫君に懸想して、たつて自分の意に従はせようとした。が、姫君も姫君の双親も、信長の望に応ずる事を喜ばない。そこでうるがんは姫君の為に、言を悪魔に藉りて、信長の暴を諫めたのであらうと云ふのである。この解釈の当否は、元より今日に至つては、いづれとも決する事が容易でない。と同時に又我々にとつては、寧ろいづれにせよ差支へのない問題である。

(芥川龍之介『悪魔』)

 言を悪魔に藉りて、信長の暴を諫めたのであればうるがんは信長の中に矛盾した二つの心を見ていたことになる。あの神も仏も恐れぬ第六天魔王をまるで気弱な中学生のような美しい悪魔に仕立て上げ、「そうではない」信長像を拵えてしまったことになる。これも逆説だ。
 ところで信長と、芥川が想定した「我々」とは何がどう違うのだろうか。「我々」が持たないものは武力であろう。圧倒的な武力による支配、それは芥川が想定した「我々」も現在の我々も実行しえない。しかし例えば宮崎勉が起こしたような事件はまたいつでも起こりえるのだ。『ゴールデンカムイ』に現れる変態達と『チェンソーマン』に現れる悪魔、そして『鬼滅の刃』の鬼たちと「我々」の間には紙一重の差しかない。ただ「我々」は何とか踏みとどまってこちら側にいる。

 しかし芥川龍之介は『悪魔』という作品の中で寧ろ、「我々」を紙一重のあちら側に置いていないだろうか。紙一重の差、それは「我々」が恐らく尊い十字架の力によって諫められることがないという差である。

 もし「忽ち尊い十字架の力によつて難なく悪魔を捕へてしまつた」のだとして、「我々」にはそんなロジックは効かない。「我々」の変態性に尊い十字架の力は何の効力もない。尊い十字架の前で人間はむしろ悪魔より剣呑な存在なのではなかろうか。神も仏も恐れぬ第六天魔王信長ではなく、ただ顔が醜いだけの人間が。

 私はこれまで人間の心を失った者たちを何人も見てきた。その人たちは大抵は見た目通りと言われかねない顔をしている。




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