芥川龍之介の『悪魔』をどう読むか? 十字架の力によって諫められることがないものたちへ
今はアニメ『チェンソーマン』が大人気らしい。この間まで『鬼滅の刃』や『ゴールデンカムイ』が評判になったと思ったら今度は『チェンソーマン』だ。いや『パリピ孔明』だってそこそこ人気なのだろうが、枕としては鬼と人間と悪魔の話にしたいので『鬼滅の刃』『ゴールデンカムイ』『チェンソーマン』の流れで考えてみたい。『鬼滅の刃』では鬼は人を食い、鬼に噛まれると人間は鬼になった。そして人間は鬼を切った。『ゴールデンカムイ』には鬼も悪魔も出てこない。ただ人間の変態同士が殺し合った。『チェンソーマン』では悪魔が人を食い、人間と悪魔の合いの子のようなチェンソーマンが悪魔を殺して行く。『チェンソーマン』に現れる悪魔はその姿は怪異なものもありそうでないものもあり、『ゴールデンカムイ』に現れる変態達と比べるとかなり真面な感じがするものもいる。『鬼滅の刃』の鬼たちは元々は普通の屈折した人間だったものが鬼となる。鬼の特徴は角よりもむしろ異常な目に現れる。その特殊能力を無視してしまえば、『鬼滅の刃』の鬼たちは人間の心を失った者たちだと言って良いかもしれない。
芥川龍之介の『悪魔』に描かれる悪魔も、何が悪魔なのか判然としないくらい真面である。谷崎潤一郎の『悪魔』の悪魔が主人公に「洟の染みた手巾をしゃぶらせようとするもの」であるとしたならば、芥川龍之介の『悪魔』に描かれる悪魔はただ「堕落させたくないもの程、益堕落させたい」という矛盾した二つの心を持つものである。おまけにその顔は美しい。
美しい顔をした悪魔、矛盾した二つの心を悲しむ悪魔、それは前回述べた通り芥川龍之介作品の著しい特徴である逆説だ。天国を昔見たことがある悪魔ならやはり堕天使ということになろう。つまり「堕落させたくないもの程、益堕落させたい」という矛盾した二つの心が自らを堕天使とした運命を悲しんでいるのだ。醜い、恐ろしい、残虐な、攻撃的な、得体の知れないものとしての悪魔は描かれない。屈折も、変態性もない。これでは悪魔を責めようもない。案の定話者は、こう結ぶしかない。
憐れむべきは悪魔だけではない。人間も矛盾した二つの心を持つものだ、とは昨日述べたとおりだ。
忠義の士と背盟の徒の差は大きなものではないとして、では芥川龍之介の『悪魔』に描かれる悪魔と人間との差はどこにあるのだろうか。いや、そもそも信長と我々にどんな差があるのだろうか。
言を悪魔に藉りて、信長の暴を諫めたのであればうるがんは信長の中に矛盾した二つの心を見ていたことになる。あの神も仏も恐れぬ第六天魔王をまるで気弱な中学生のような美しい悪魔に仕立て上げ、「そうではない」信長像を拵えてしまったことになる。これも逆説だ。
ところで信長と、芥川が想定した「我々」とは何がどう違うのだろうか。「我々」が持たないものは武力であろう。圧倒的な武力による支配、それは芥川が想定した「我々」も現在の我々も実行しえない。しかし例えば宮崎勉が起こしたような事件はまたいつでも起こりえるのだ。『ゴールデンカムイ』に現れる変態達と『チェンソーマン』に現れる悪魔、そして『鬼滅の刃』の鬼たちと「我々」の間には紙一重の差しかない。ただ「我々」は何とか踏みとどまってこちら側にいる。
しかし芥川龍之介は『悪魔』という作品の中で寧ろ、「我々」を紙一重のあちら側に置いていないだろうか。紙一重の差、それは「我々」が恐らく尊い十字架の力によって諫められることがないという差である。
もし「忽ち尊い十字架の力によつて難なく悪魔を捕へてしまつた」のだとして、「我々」にはそんなロジックは効かない。「我々」の変態性に尊い十字架の力は何の効力もない。尊い十字架の前で人間はむしろ悪魔より剣呑な存在なのではなかろうか。神も仏も恐れぬ第六天魔王信長ではなく、ただ顔が醜いだけの人間が。
私はこれまで人間の心を失った者たちを何人も見てきた。その人たちは大抵は見た目通りと言われかねない顔をしている。
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