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『羅生門』の謎


 芥川龍之介の『羅生門』にはいくつか解らないことがある。思いつくままに箇条書きにしてみると、

①猿のような老婆はいつから楼(二階)にいたのか?

②老婆は火をどこから持ってきたのか?

③何故わざわざ二階に死体が運ばれたのか?

④これまで下人は聖柄の太刀を何に使っていたのか?

⑤死人の毛で作った鬘に需要があるほど当時は女性に禿が多かったのか?

⑥餓死する前に人を食うことを考えないのか?

⑦蛇でも興梠でも食べればいいのではないか?

 ……下人は盗人になったのかとか、何故芥川は下人の心の中に入り、外側から眺め、説話を踏襲したのかとか、サンチマンタリズムはどうして横文字なのかとか、そもそも芥川は『羅生門』で何を訴えたかったのか、という辺りの内容に関する議論はさて置き、こうした作品の設定に関する疑問は案外指摘されることがない。

①猿のような老婆はいつから楼(二階)にいたのか?

②老婆は火をどこから持ってきたのか?

 この二つの謎は、楼には梯子を上らずには辿り着けないし、髪を抜くために頭が動けば時々ごちんごちんと上から音が聞えたのではないかと考えた時に表れる。死体が仰向けなら後ろ髪は抜けない。まんべんなく抜くためには頭を動かさなくてはならない。頭は重くて硬い。どうしても頭を動かすとごちんごちんと音がしたのではなかろうか。また火を持ったまま梯子を上るのは容易なことではないし、昔はチャッカマンもない。マッチすらないのだ。下人があれこれ悩んでいる最中に火を持った老婆が梯子を上れば、下人の目に入ったのではないかとも思えるし、まだ暗くならないうちから火を持って行ったとすれば、火を灯し続ける道具が解らない。

③何故わざわざ二階に死体が運ばれたのか?

 死体を運ぶのは容易ではない。死体を背負って二階に運ぶのは困難だ。滑車でもなければ、まずそもそも死体を二階に運ぼうなどとは普通は考えないのではなかろうか。それくらいするなら埋めた方が遥かに楽だ。鴨長明的に言えば河原に捨てるのが簡単だ。無論筋立てとして楼に死体が無ければ『羅生門』という小説が成立しないのだが、死体を二階に運ぶ動機と道具が見えない。

※せめて野犬に食われるのを避けるために二回に運んだ。あるいは地面に捨てられた死体は野犬に食われた。とも考えたが、そもそも野犬も人に食われただろう。

④これまで下人は聖柄の太刀を何に使っていたのか?

 そもそも平安時代の下人は聖柄の太刀を持っていいのか? という疑問を抱く人は少なくないようで、この件に関しては少し云々されている節があるもどうもはっきりしたことは解からない。平安時代の下人は売り買いの対象でもあり合戦にも駆り出されたようだが、もし太刀を使い慣れた下人であれば、その物騒な世相でこそリストラされることはなかったのではないかと思える。ただの飾りをぶら下げていた訳ではなかろうし、太刀を振るった覚えがあるならば、盗人になるくらいの胆力はそもそも備わっていたのではないのかと思える。

 むしろその聖柄の太刀もどこかからくすねてきたものならば、強盗ではないかもしれないが既に盗人である。

下人はそこで、腰にさげた聖柄の太刀が鞘走らないように気をつけながら、藁草履をはいた足を、その梯子の一番下の段へふみかけた。(芥川龍之介『羅生門』)

 この「聖柄の太刀が鞘走らないように気をつけながら」という記述が立ちの扱いに慣れたものを意味するか、あるいはまだ太刀の扱いに慣れていないという様子を表したのか、解釈は二様に分れるだろう。

 下人は、老婆をつき放すと、いきなり、太刀の鞘を払って、白い鋼の色をその眼の前へつきつけた。(芥川龍之介『羅生門』)

 この表現からは左手で鞘を捩り、刃を上向きに太刀を抜く武人の居合が見える。何故なら太刀は抜かれた傍から老婆の目の前にある。抜刀術を心得た下人であればリストラの前に売りに出されても可笑しくはないのではなかろうか。

⑤死人の毛で作った鬘に需要があるほど当時は女性に禿が多かったのか?

 今でも女性用かつらのテレビCMが流れるし、昔からそういう需要があったのだろうとは思いながら、それほど荒れた時代にかつらなのかと疑問に思う。かつらなど所詮は贅沢品ではなかろうか。死人の髪の毛が気持ち悪いという感覚も、当時はなかったのだろうか。

⑥餓死する前に人を食うことを考えないのか?

⑦蛇でも興梠でも食べればいいのではないか?

 秀吉の鳥取城の飢え攻めでは松の木の皮が剥かれて喰われた。奥崎健三の『行き行きて神軍』、沖さやかの『マイナス』、武田泰淳の『ひかりごけ』などで書かれる通り、人は案外簡単に人肉を食うようである。本当に餓死しそうになったら、下人も人肉を食べたのではなかろうか。

 ちなみにサンチマンタリズムは『青年』『雁』『かのように』で鴎外がサンチマンタルを使った影響であろうし、下人の描き方が一様でないのはこれが説話ではなく小説であるからで、芥川が『羅生門』で訴えたかったのは、曲(よこしま)に対する懲らしめであろう。

 下人はいつか多襄丸として、再び芥川の前に現われたのではなかろうか。


[余談]

 歯医者さんに行ったら歯の説明の途中で、画面に例のマイクロソフトの邪魔なニュースが出てきた。みな解除の方法が解らないみたいだ。

 それにしてもどうして皆に嫌われようとするのだろう?



 で、みなさんは?

【余談】

 故芥川氏の「羅生門」に書いてありますやうに、都のすぐ入口の羅生門の屋根裏には死骸がルヰルヰとして捨てられ、その中にやはり遺棄された病人がうめいたといふ工合で、この一端をみても當代の庶民層の生活といふものが、どんなに哀れなものであつたかといふことが知られるのであります。ですから、私は「源氏物語」を讀む場合、いつも感じるのは、平安朝時代にこのやうな華やかなうるはしさ、平和さ、のどけさといふものを私たちの祖先が持つてゐたといふことに對しては大いなる誇りと、ゆたけさを感ずるとしても、あの「源氏物語」を文學的に支へてゐるもの、あるひは「平家物語」において平家の榮耀榮華を支へてゐたものは、實はその下にいまのべたやうに生々とした庶民の生活があつたからである。いひかへると、この庶民の生活の犠牲の上に咲いた花が平安朝文化であり、その一部は「源氏物語」であり、「平家物語」であると、私には思はれ、それはまた私の新・平家の一つの構想でもあるのであります。

(吉川英治『折々の記』)

 やはり何とも疑問に思わぬ人もいるようだ。

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