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読み誤る漱石論者たち 阿刀田高⑥ 『こころ』は読みやすい話ではない。

〈こころ〉は読みやすい小説だ。ストーリーはややこしくないし、描かれている心理も思案もわかりやすい。人気の理由もこのあたりにあるのだろう。しかし問いかけているテーマは、そう簡単ではない。(阿刀田高『漱石を知っていますか』新潮社・2017年)

 こう書いている時点で阿刀田高は「自分には夏目漱石作品を理解する能力がありません」と宣言しているようなものだ。『こころ』を文字として読むことはそう困難ではない。実際、漱石全集では細かく注釈が振られているので三島由紀夫作品や谷崎潤一郎作品を読むよりむしろ「楽」と感じるかもしれない。しかし実に多くのプロが夏目漱石作品を読み落とし、読み間違いをしているというのは、どうにも誤魔化しようのないゆるぎない事実なのだ。

 例えば「藤尾は毒薬を飲んで自殺していない」とい事実を読み落とせばそれは『虞美人草』を読んだことにはならないが、解説を書いているような人でもそのことは殆ど気が付いていないのだ。(確認できた範囲では福嶋亮大が『厄介な遺産 日本近代文学と演劇的想像力』青土社、2016年において「憤死」を認めている。)そして『こころ』に関しては、

 この一連の漱石論2.0で書いてきたように、いくつもの仕掛けに殆どの人が気が付いていない。

 江藤淳でさえ、このレベルなのだ。しかし江藤淳は巧みな文体でなかなか読ませる文章を書いてそれなりの読者と信者を得て来た。それが災いをして柄谷行人が江藤淳の読み誤りを継承して、さら巧みな文体でなかなか読ませる文章を書いてそれなりの読者と信者を得て来た。残念なことに福嶋亮大も柄谷行人の影響下にある。それにしても違うものは違うのだ。
 阿刀田高も「財産と擬制家族」「静という名前の意味」「話者の立ち位置」「Kの裏切り」「真砂事件の謎」「浣腸の意図」「セックスレス」「鎌倉での海水浴での話者の恰好」「冒頭のすがすがしさ」など基本的なところを読み飛ばしてしまっている。芝居云々で漱石を論じるならば、「頭の上でとぐろを巻く黒い蛇」「Kは泥の中に片足を踏み込んだか」に気が付かないのはおかしい。観客の視点に立てば「話者は玉突きをしたかしないか」「西洋人はなぜ消えたのか」「話者がこの作品を世間に公表するように書いている理由」などに考えが及ばねばなるまい。しかし及ばないのだ。あるいは、

 こうした基本的なことも気が付いていないかもしれない。実際島田雅彦や高橋源一郎が馬鹿にされないのは、こうした基本的な読解力に欠いている人を妄信する読者が一定数存在するということを意味する。吉本隆明、蓮實重彦、江藤淳や柄谷行人がどう考えていたのかは定かではないが、批判しなかったことが同じ穴の貉の証拠ではあるまいか。つまり島田雅彦や高橋源一郎の読み誤りと云うのは氷山の一角で、二人の読み誤りを指摘出来なかった佐藤優や斉藤孝らのような人たちが何億人か存在していて、格好がいいと思って「月がきれいですね」と呟いている訳だ。この恥ずかしさに気が付くのはいつになることやら。
 阿刀田高も全く何も参照していないわけではなさそうで、話者と静の結婚説があることを述べている。しかしそのことがどういう意味を持つのかを語らない。語れないのだ。

 静の罪はない。そうでなければ静という名にはならなかった。罪があれば子はなせなかった。

 同様に乃木静子にも罪はない。軍旗を奪われた罪もないのに殺されてしまった。乃木大将の遺書では静子は生かされる予定だった。つまり乃木大将には妻・静子を道連れにする意図はなかった。しかし何故か乃木静子は乃木大将と一緒に殺された。先生の遺書でも静は生かされる予定で……生かされた。
 こんなことが解らないで「読みやすい小説だ」とは、阿刀田高は何ともおめでたい人だと言うしかない。悪い人ではないのだろうが、とても夏目漱石作品を「評価」できるようなレベルの読み手ではない。この人も恥を増やす前に口を噤むべきだった。

 いや、悪口を書いているのではないですよ。書くこと、そして読むことの厳しさについて確認しているだけだ。何をどう書いても自由だが、その自由には責任がつきまとう。そして何をどう読んでも自由なわけではない。最低でもここまでは読めていなければならないというレベルがある。そのレベルに達していなければ読んだことにはならない。誤読は作品を冒涜するふるまいだ。絶対に許されることではない。



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