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岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する151 夏目漱石『道草』をどう読むか27

  岩波は注解において「漱石自身においては約六年間にわたることが、作品では一年間にも満たない期間に圧縮されている」と述べている。このことこそが最も問題なのではなかろうか。つまり注解者もやはり一応は「期間」について考えたわけである。考えた? 思いを巡らした、気に留めた、いずれでも良い。
 つまりは作品の中で進行する現在時間について「一年にも満たない」と判断したのだから、『道草』が九月に始まる話としては見ていないことになる。では健三が駒込に居を据えたのは三月で、御住の里帰りはその四か月後の夏休みだったのだろうか。

・三月某日島田と会う
・その六日後もう一度島田と会う
・次の日曜姉に会う
・一週間後の日曜日に風邪をひく
・ニ三日寝込む(この間、吉田虎吉が訪問)
・吉田虎吉と面会
・何日か後の午後(一週間後の日曜日? 四月初旬?)、吉田虎吉と島田がやってくる
・雨が降る日が数日続く
・晴れた日曜日、細君が子供を連れて里と長太郎を訪問する
・月は早くも末になった(四月末?)細君が会計簿を持ってくる
・健三は仕事を増やして給与が出る(五月末?)
・ニ三日経ってから細君に反物を見せられる
・ある日留守中に島田が来たと言われる
・比田に葉書で呼び出され、葉書で返事を出して、比田の家に行く。
・青年と散歩する(長太郎が来るが留守)二十九章、細君は妊娠している。
・ニ三日後長太郎が袴を返しに来る
・事件のない日がまた少し続いた
・それから五、六日ほどして島田がまたやってきた(そろそろ七月?)
・三日ほどしてまた島田がやってくる
・夫婦はどこまで行っても背中合せのままで暮した

 そして夏休み、と仮置きして読み直してみたがやはりピンとこない。確かにここまてで春から夏へと季節が進む感じがまるでない。無論秋から冬へと季節が進む感じというものもない。むしろ秋はなく、終盤で急に寒くなっている。

 はっきりしているのは第百一章で「歳が改たまった時」と書かれていて、百二章が恐らく一月の半ばで物語が閉じていることだ。そこから遡ると九十八章で「年内たってもう僅かの日数しかないじゃありませんか」と言われて年の瀬だと解る。九十四章では、確かに季節がある。

 年は段々暮れて行った。寒い風の吹く中に細かい雪片がちらちらと見え出した。子供は日に何度となく「もういくつ寐ると御正月」という唄をうたった。彼らの心は彼らの口にする唱歌の通りであった。来きたるべき新年の希望に充ちていた。

(夏目漱石『道草』)

 八十九章では「段々暮になるんでさぞ御忙がしいでしょう」と言われている。この章で赤ん坊は「此間生れたばかりです」と言われる。

「しかし寒い事も寒いんでしょう、今年は」
 健三には自分の説明を聴かない細君が可笑しく見えた。
「そりゃ冬だから寒いに極っているさ」

(夏目漱石『道草』)

 これが八十五章。子供が生まれるのは八十一章。

 いや、辻褄は合う。むしろ暑い盛りはあれ春も秋もなく、寒くなってから季節が現れる小説として、つまり『道草』は季節を隠して書かれた小説なのではなかろうか。それにしてももう一度確認してみて、前半の季節感の無さはまさに見事なものだ。

 夏目漱石自身は帰国後三月に駒込に住み、四月に東京帝国大学の講師になった。そういう前提を置けばなんとかつじつまが合う?

 3、4、5、6、7、8、9、10、11、

 いやいやいや。

 月が足りない。 

 人間のアカンボウは十月十日で生まれるというのは私の幻想なのだろうか?

みんな金が欲しいのだ

 彼は時々金の事を考えた。何故なぜ物質的の富を目標として今日まで働いて来なかったのだろうと疑う日もあった。
「己だって、専門にその方ばかり遣りゃ」
 彼の心にはこんな己惚れもあった。
 彼はけち臭い自分の生活状態を馬鹿らしく感じた。自分より貧乏な親類の、自分より切り詰めた暮し向に悩んでいるのを気の毒に思った。極めて低級な慾望で、朝から晩まで齷齪しているような島田をさえ憐れに眺めた。
「みんな金が欲しいのだ。そうして金より外には何にも欲しくないのだ」
 こう考えて見ると、自分が今まで何をして来たのか解らなくなった。

(夏目漱石『道草』)

 『明暗』ではちょっと病気をしたくらいで親に金をねだらなくてはならない津田由雄、「金さ、君」の『こころ』の先生、の間に位置する『道草』の健三はやはりこの金の問題を問うている。
 そしておそらくこの金の問題をクリアに出来ている人はこの記事を読んではいないだろう。

 例えばウエルスナビに5000万円ほど入金すると日に数十万の資産の変動を見ることができる。儲かるばかりではない。増減する。こういうものを眺めていると金とは単なる数字であることが解る。
 漱石は『彼岸過迄』で、

田口要作>松本恒三>須永市蔵>田川敬太郎>>>>森本

 ……という格差

経営者>資産家>土地所有者>>>>労働者

 ……という関係性を露骨に描いた。

 どうも『それから』を書いた後、働いても働いても楽にならない、相続財産のようなものが欲しい、と中村是公にボヤいたあたりから、この金の問題は漱石が問い直さなくてはならない根本的な問題となった。『門』には弟を大学に行かせる甲斐性もない宗助がいた。死にかかった漱石は『行人』でこそ金を根本的な問題とはしなかったが、そこにも確かに土地資産の威力というものが描かれていた。『こころ』の先生は働いていないのに家にはアイスクリーマーがある。
 この金の問題は何度もの揺り戻しの後、『道草』の時点で、「そもそも自分はこちらの方向に自分を片付けたはずじゃないか」と自分い言い聞かせるように念押しされているように思える。

金の力で支配出来ない真に偉大なもの

 彼は金持になるか、偉くなるか、二つのうちどっちかに中途半端な自分を片付けたくなった。しかし今から金持になるのは迂闊な彼に取ってもう遅かった。偉くなろうとすればまた色々な塵労が邪魔をした。その塵労の種をよくよく調べて見ると、やっぱり金のないのが大源因になっていた。どうして好いいか解らない彼はしきりに焦れた。金の力で支配出来ない真に偉大なものが彼の眼に這入って来るにはまだ大分間があった。

(夏目漱石『道草』)

 金など数字に過ぎない。金の力で支配出来ない真に偉大なもの、それが夏目漱石作品であることに気が付いている人は何百人かは存在するだろう。しかし金の力で支配出来ない真に偉大なもの、夏目漱石作品を受け取るためにはただ眺めるだけでは足りないことを本当の意味で理解している人はまだ数人しかいない。(恐らく二人?)

 先月私の本を立て続けに三十数冊読んでくれた人がいたようだ。恐らくその人は気が付いているだろう。ただ眺められてきた漱石作品を本当に読むとはどういうことかと。金の力で支配出来ない真に偉大なものがまだ殆ど知られていないことを。
 金の力で支配出来ない真に偉大なものが、例えば芥川の『奇怪な再会』や『あばばばば』でもあることも既に示してきた。

 しかしおそらく芥川龍之介作品もまだ殆ど数人にしか届いていない。安部水紀、荒井真理亜、小谷瑛輔、斎藤理生、佐藤希理恵、武久真士、広瀬正浩、松本和也、水川敬章、山田夏樹、𠮷田恵理、吉田竜也、禧美智章、渡邊英理らには『あばばばば』が読めていない。

 それでも本が書けるのだから恐ろしい。夏目漱石作品、そして芥川龍之介作品が金の力で支配出来ない真に偉大なものであるのは、それくらい二人の作品が高い水準で書かれており、大人気でありながら、大抵の人には理解できない奇妙なものだからだ。

 金の力で支配出来ない真に偉大なものとは岩波教養主義ではない。それは一つの権威主義に過ぎない。

 今でも岩波文庫を買いそろえることで自分が賢くなったように思いこむ人は少なくなかろう。しかしそういうことではないのだ。話者は遥かな未来から気が付かない健三を見ている。話者には見えているのだ。金の力で支配出来ない真に偉大なものが。

世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない

 細君の顔には不審と反抗の色が見えた。
「じゃどうすれば本当に片付くんです」
「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ」
 健三の口調は吐き出すように苦々しかった。細君は黙って赤ん坊を抱き上げた。
「おお好い子だ好い子だ。御父さまの仰しゃる事は何だかちっとも分りゃしないわね」
 細君はこういいいい、幾度か赤い頬に接吻した。

(夏目漱石『道草』)

 岩波の注解者は「世の中に片付くなんてものは……」に注を付ける。つまり「殆ど」と言われていて片付いたものが少なくとも一つはあることを見逃している。そう気が付いてみると「世の中に片付くなんてものは……」の方を見させるのは、いかにも漱石流だと感心する。

 ここに金の力で支配出来ない真に偉大なものが確かにある。

[余談]

 途中ですが『道草』は一旦中断して次に進みたいと思います。目の調子が良くないので、出来る限り先を急ぎます。



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