日本でレタスは何時から食べられていたか? 戦後だよ。
Toggeterで一時話題になったツイートに、江戸時代レタスは普通に食べられていたが、当時を描いた作品にレタスが出てくると大多数の受け手は考証ミスだと感じてしまうという話というものがあります。
私はその事実を知りませんでしたが、即違和感を覚えました。つい先日谷崎潤一郎の『美食倶楽部』を読んで、大正時代まだ日本では白菜があまり知られた食材でなかったことを知ったばかりで、そこからの違和感です。
白菜と云えば鍋やお漬物は勿論野菜炒めなど様々な料理に使われますが、レタスを使った料理がサラダと丸鶴のレタスチャーハンくらいしか思いつかなかったからです。
昔新宿にあった王貞治さんの親戚が営む中華料理店では、焼きそばにキュウリが這入っていました。そのような形で密かにレタスも色々と使われているのかもしれませんが、少なくとも「江戸時代レタスは普通に食べられていた」とは俄かには信じられなかったのです。
調べてみました。
ここまでは苣で次世代デジタルライブラリーを検索した結果です。さらに
……ということが解り「玉萵苣」で調べるとほぼ答えが出てしまいました。
まあ、一応これが結論でしょう。つまり「江戸時代レタスは普通に食べられていた」は間違いだということになります。しかしその事実に誰も気が付きません。その後も「見たような気がする」「聞いたことのあるのような気がする」と「気がするコメント」が続きます。例えば結球性のレタスとかクリスプヘッド型と云った言葉を目にしても調べないわけです。82745人が!
私はある時会社法を読んでいておかしなことに気が付きました。株主総会招集通知がいつ出されるか分からないのに、株主総会の日の八週間までに株主提案を会社に送らなくてはならないのです。つまりこの法律を作った人にとって株主提案とはさして重要なことではないのです。そして私の提案によって一応個数制限が出来ましたが、それまでは一人一兆個でも二兆個でも株主提案ができるザル法だったのです。
またこの株主提案もみなネットニュースの拾い読みで満足して、学者や専門家を自称する人まで伏せられた提案を知ろうともしなかったわけです。一言でいえば、
誰も調べない
ということです。「江戸時代レタスは普通に食べられていた」ではなく「江戸時代にも苣と云うものはあった」というのが確認できる事実であるのに、そこを踏み込んで調べないわけです。
素人ならまだしも、会社法の改正論議に関わったような人までも、その論議の発端となった株主提案や、現在の株主総会の運営上の問題点について調べようとしないのです。その書かれたものからは、どうも株主総会への参加や株主提案の経験が感じ取れないのです。しかしレタスを知らない人が、なんでレタスの議論に参加するんですかね? レタスを調べない人が「見たような気がする」ですませて、それで専門家でいいんですかね?
切腹に関するスレは、このコメントで途切れました。何人かはこのnoteの記事に辿り着き、「無」の感情で立ち去り、コメントを諦めたようです。
そもそもToggeterはそうした「湧いてくる」人々のためのものなのでしょうが、そうした「湧いてくる」人々の力は恐ろしいものだと思いました。この記事で「日本でレタスは何時から食べられていたか? 戦後だよ。」と書いても圧倒的な数の論理でこの情報は埋もれてしまうのです。江戸時代からレタスが食べられていたという誤情報が定着してしまうのです。
それにしちゃ、料理のヴァリエーションが少なくないか、とは誰も思わないのです。
このように調べれば調べただけ事実が見えてきます。また疑問もわいてきます。かなり見解にぶれがあるからです。しかしはっきりしてきたのは江戸時代から現在我々がレタスとして認識するような玉レタスが普通に食べられていたというような認識は間違いだということです。
ほんの少し調べるだけで、間違いはいくらでも見つかるものです。
でも、調べないんだなあ。
ちゃう云うとるがな。
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