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芥川龍之介の『杜子春』をどう読むか② こんな思いをして生きている位なら 

 この『杜子春』が『羅生門』と同じような始まりかたであることは既に述べた。

 杜子春も『羅生門』の下人と大差ない食い詰め者であった。

 或る春の日暮です。
 唐の都洛陽の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでいる、一人の若者がありました。
 若者は名を杜子春といって、元は金持の息子でしたが、今は財産を費い尽して、その日の暮しにも困る位、憐れな身分になっているのです。

(芥川龍之介『杜子春』)

 ここでどういう了見か、杜子春は下人にはなかったある選択肢を持ち出す。

こんな思いをして生きている位なら、一そ川へでも身を投げて、死んでしまった方がましかも知れない

(芥川龍之介『杜子春』)

 唐突に表れる自殺という選択肢。
 童話なのに?
 いや、所詮童話である。そう真面目に深く考えることは無い。しかし、不図こんな嫌味を書いて見たくなる。芥川龍之介の恋愛小説といえば、『好色』くらいしか思い浮かばないな、と。いや『好色』が恋愛小説かどうかはさておき、老婆を裸に剥いた下人はともかくとして、『杜子春』に美しいお嫁さんや温かい家族が現れないのは何故だろうかと。

 人間らしい、正直な暮し、それは泰山の南の麓の一軒の家と畑でかなえられるものなのだろうか。

 私の記事を続けて読んでいる人がいたとしたら、それは『女』という小説での母の描き方の冷徹さから来る発想なのだろうと思われるかもしれない。そういう要素もある。ただ「人間らしい、正直な暮し」として子供たちに投げ与えられたものが如何にもつつましく、素っ気ないことに改めて気が付いたからでもある。

 この『杜子春』が書かれた大正九年、三月に長男・比呂志が生まれ、芥川龍之介は父となり、文は母となる。夫婦から家族に変わった関係性が成立した直後、子をなす雌蜘蛛を悪そのもののように描いて見せた『女』は、非人情でおぞましい作品だった。そこには父となった喜びの照れ隠しではない拒絶が見えた。それはまさに「女」に向けられた断固たる拒絶である。

 老婆を裸に剥いた下人にどのような性的嗜好があったのかは定かではない。しかし杜子春がアセクショナルであることは議論を待たないであろう。

 大金持になった杜子春は、すぐに立派なを買って、玄宗皇帝にも負けない位、贅沢な暮しをし始めました。蘭陵のを買わせるやら、桂州の竜眼肉をとりよせるやら、日に四度色の変る牡丹を庭に植えさせるやら、白孔雀を何羽も放し飼いにするやら、を集めるやら、を縫わせるやら、香木の車を造らせるやら、象牙の椅子を誂えるやら、その贅沢を一々書いていては、いつになってもこの話がおしまいにならない位です。

(芥川龍之介『杜子春』)

 この後「二十人の女たちが、十人は翡翠の蓮の花を、十人は瑪瑙の牡丹の花を、いずれも髪に飾りながら、笛や琴を節し面白く奏している」と女は飾られはするもの、杜子春は彼女らを求めない。

 高橋の「仙人の話」と比較した時、そのご清潔さが際立つだろう。


 それは浮気隠しの小細工ではなく、案外芥川の本音が現れたところではあるまいか。つまり『女』と『杜子春』の間に共通してあるものは、家庭を拒絶するある価値観である。


 表面的には金や妖術では幸せを得られないという価値観が示されており、それを道徳教育に利用したいという人があるかもしれないが、仔細に見れば否定されているのは金そのものではなく、金に群がる友人である。杜子春は人間不信のままでいる。

 そして大体百万人くらいの有象無象が書いていると思うが、

「心配をおしでない。私たちはどうなっても、お前さえ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と仰っても、言いたくないことは黙って御出」
 それは確かに懐しい、母親の声に違いありません。杜子春は思わず、眼をあきました。そうして馬の一匹が、力なく地上に倒れたまま、悲しそうに彼の顔へ、じっと眼をやっているのを見ました。母親はこんな苦しみの中にも、息子の心を思いやって、鬼どもの鞭に打たれたことを、怨む気色さえも見せないのです。大金持になれば御世辞を言い、貧乏人になれば口も利かない世間の人たちに比べると、何という有難い志でしょう。何という健気な決心でしょう。杜子春は老人の戒めも忘れて、転ぶようにその側へ走りよると、両手に半死の馬の頸を抱いて、はらはらと涙を落しながら、「お母っかさん」と一声を叫びました。…………

(芥川龍之介『杜子春』)

 ここで芥川はニーチェの発狂を杜子春に重ねている。

 つまり『杜子春』における母に対する愛は、作中では「真面な人間であること」の証となるが、その絵面はニーチェのエピソードと重ねられることで「真面ではない」という証にも捉えられるという、捻じれた構図を持っているのだ。

 その「真面ではない」ところはそもそもニーチェのエピソードと重ねなくても見えている。

 鬼は忽ち風に乗って、地獄の空へ舞い上りました。と思うと、又星が流れるように、二匹の獣を駆り立てながら、さっと森羅殿の前へ下りて来ました。その獣を見た杜子春は、驚いたの驚かないのではありません。なぜかといえばそれは二匹とも、形は見すぼらしい痩せ馬でしたが、顔は夢にも忘れない、死んだ父母の通りでしたから。

(芥川龍之介『杜子春』)

 つまり、

 このくらい真面ではない。『馬の脚』ではわざと奇妙に描かれる人間と馬の合体が、実は『杜子春』の場合にこそ真面ではないことが絵にしてみれば解るだろう。

 家庭を拒絶、人間不信、そして発狂……。
 杜子春の父母は、畜生道に落ちている。杜子春の父母は金持ちでありながら、道徳から外れた人たちだったのだ。

 人間らしい、正直な暮しからは明確に家庭が排除されている。『女』と『杜子春』の間に共通してあるものは、家庭を拒絶するある価値観とは、生命に対する「畏怖」である。

 これが童話か?



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