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川上未映子の『ヘヴン』をどう読むか⑧ やればできたかもしれない

 私自身が世間の常識とは異なる考え方をしている点の一つにやや決定論に傾いていることが挙げられる。一般的に現在は非決定論が勇勢で科学的であるとされていて、決定論は分が悪い。勿論結果的にそうなることと、なるべくしてそうなることは意味合いが全く異なるものの、常識的にはという前提の下では現実は一つなのだから、別の可能性などというものがあろうがなかろうが、そんなことはどうでもいいのではないかと思う。

 だからこそ未来は知り得ないし、(ノストラダムスも星ひとみも嘘つきで)、物体は突然消滅したりもしないと考えていた。

 例えば『ヘヴン』という本は、私が読む前に書かれているので、もう内容は決定しているのだが、私はそれを読む前に知り得ない。世界というものはだいたいそういう仕組みなのではないかと考えていた。

 しかし昨日、物体が突然消滅した。

 ということはつまり、『ヘヴン』の第八章も、私が読む前には別の内容なのではなかっただろうか?
 ついそんなことを考えてしまう。

 余りに陰惨な展開だからだ。
 
 母親が手を切る。痛そうだ。離婚するかもしれないという話になる。斜視の手術のことはゆっくり考えればいいと言われる。何度もコジマに手紙を書くが返事がない。しつこく手紙を書き続けているうちに土曜日くじら公園で会おうという返事が来る。久々に父親が家に帰ってきた。その新聞をめくる音に吐き気がこみ上げる。マスターベーションを二回。ついにコジマをおかずにしてしまう。

 それはまるで『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』で多崎つくるが白根柚木をおかずにしてしまった罰のように、残酷な出来事、マクダカート的に言えばA系列で記述されるべき残酷な時間だった。くじら公園でコジマの手を握った「僕」は二宮たちに取り囲まれていて、コジマとセックスをするように命じられる。「僕」はパンツ一枚にされ、石を握る。

 しかしその石を二宮に叩きつけることができない。

 やればできたかもしれないのに、どうしてもできない。いや、いざやろうとした時にはコジマに止められて、コジマは自ら全裸になってしまったのだ。

 それはもし昨日のうちに第八章を読み終わっていれば変わっていた話なのだろうか?

 おそらくそうではない。

 やればできたかもしれないなんてことはそもそもなくて、たまたまそうなったなんてこともなくて、現実は一つなのではなかろうか。

 それはたぶん、こうして僕たちはゆく場所もなく、僕たちがこのようにしてひとつの世界を生きることしかできないということにたいする涙だった。ここ以外に僕たちに選べる世界なんてどこにもなかったという事実にたいする涙だった。

(川上未映子『ヘヴン』講談社 2009年)

 それは残酷な出来事だった。未来であったものが現在に変わり過去になる。だが消えてしまうわけではない。一度起こってしまったことは、もう取り返しがつかない。

 そして気ままに誰でもぶん殴れるような自由「石」などないことを川上未映子は主張しているのだ。

 この先にまだ九章がある。

 そこでまた「僕」がマスターベーションをするのか、コジマをおかずにするのか、それはまだ誰も知らない。三度のマスターベーションでさえ多いのに、と思うのは私で川上未映子は私ではないからだ。


[余談]

 ほんとに無理なのかな?

 まあいい。死んでから評価されよう。



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