見出し画像

サバイバーズ・ギルトのない風景

 芥川龍之介が直接的に戦争について書いた作品は『首が落ちた話』と『将軍』のみであると言って良いであろうか。「東西の事」を書いた『手巾』が戦争に関して書いたのではないとしたら、そういう理屈になるのではなかろうか。

 とにかくその間中何小二は自分にまるで意味を成さない事を、気違いのような大声で喚きながら、無暗に軍刀をふりまわしていた。一度その軍刀が赤くなった事もあるように思うがどうも手答えはしなかったらしい。その中に、ふりまわしている軍刀のつかが、だんだん脂汗でぬめって来る。そうしてそれにつれて、妙に口の中が渇いて来る。そこへほとんど、眼球がとび出しそうに眼を見開いた、血相の変っている日本騎兵の顔が、大きな口を開きながら、突然彼の馬の前に跳り出した。赤い筋のある軍帽が、半ば裂けた間からは、いが栗坊主の頭が覗いている。何小二はそれを見ると、いきなり軍刀をふり上げて、力一ぱいその帽子の上へ斬り下した。が、こっちの軍刀に触れたのは、相手の軍帽でもなければ、その下にある頭でもない。それを下から刎ね上げた、向うの軍刀の鋼である。その音が煮えくり返るような周囲の騒ぎの中に、恐しくかんと冴え渡って、磨いた鉄の冷かな臭いを、一度に鋭く鼻の孔の中へ送りこんだ。そうしてそれと共に、眩ゆく日を反射した、幅の広い向うの軍刀が、頭の真上へ来て、くるりと大きな輪を描いた。――と思った時、何小二の頸のつけ根へは、何とも云えない、つめたい物が、ずんと音をたてて、はいったのである。(芥川龍之介『首の落ちた話』)

「露探だな。」
 将軍の眼には一瞬間、モノメニアの光が輝いた。
「斬れ! 斬れ!」
 騎兵は言下に刀をかざすと、一打ちに若い支那人を斬きった。支那人の頭は躍るように、枯柳の根もとに転ころげ落ちた。血は見る見る黄ばんだ土に、大きい斑点を拡げ出した。
「よし。見事だ。」
 将軍は愉快そうに頷きながら、それなり馬を歩ませて行った。
 騎兵は将軍を見送ると、血に染んだ刀を提っさげたまま、もう一人の支那人の後うしろに立った。その態度は将軍以上に、殺戮を喜ぶ気色があった。「この×××らばおれにも殺せる。」――田口一等卒はそう思いながら、枯柳の根もとに腰を下おろした。騎兵はまた刀を振り上げた。が、髯のある支那人は、黙然と首を伸ばしたぎり、睫毛一つ動かさなかった。……(芥川龍之介『将軍』)

  しかしこんな残酷な風景はむしろ付け足しである。芥川にとって戦争とは単なるプロットに過ぎない。芥川は『将軍』でも『首が落ちた話』でも戦争を材料にはするが、戦争そのものを云々する意図は見せない。芥川はこんな理屈を言うために『将軍』を書いたのだ。

「何と云えば好いいですか?――まあ、こんな点ですね、たとえば今日追悼会のあった、河合と云う男などは、やはり自殺しているのです。が、自殺する前に――」
 青年は真面目に父の顔を見た。
「写真をとる余裕はなかったようです。」
 今度は機嫌の好い少将の眼に、ちらりと当惑の色が浮んだ。
「写真をとっても好いいじゃないか? 最後の記念と云う意味もあるし、――」
「誰のためにですか?」
「誰と云う事もないが、――我々始めN閣下の最後の顔は見たいじゃないか?」
「それは少くともN将軍は、考うべき事ではないと思うのです。僕は将軍の自殺した気もちは、幾分かわかるような気がします。しかし写真をとったのはわかりません。まさか死後その写真が、どこの店頭にも飾られる事を、――」
 少将はほとんど、憤然と、青年の言葉を遮ぎった。
「それは酷だ。閣下はそんな俗人じゃない。徹頭徹尾至誠の人だ。」
 しかし青年は不相変らず、顔色も声も落着いていた。
「無論俗人じゃなかったでしょう。至誠の人だった事も想像出来ます。ただその至誠が僕等には、どうもはっきりのみこめないのです。僕等より後の人間には、なおさら通じるとは思われません。……」(芥川龍之介『将軍』)

 『首の落ちた話』はまるで滑稽譚である。何小二の首は日本兵に切られた時には落ちず、戦後無頼漢になった後で落ちる。

 何小二の眼には、とめどもなく涙があふれて来た。その涙に濡れた眼でふり返った時、彼の今までの生活が、いかに醜いものに満ちていたか、それは今更云う必要はない。彼は誰にでも謝りたかった。そうしてまた、誰をでも赦したかった。
「もし私がここで助かったら、私はどんな事をしても、この過去を償うのだが。」(芥川龍之介『首の落ちた話』)

 こう思っていた男が戦後は酒と女で身を持ち崩し無頼漢となる。この人間の「そう単純ではないところ」を言い当てるのが芥川の得意であろう。

「君は立派な空想家だ。だが、それならどうしてあいつは、一度そう云う目に遇いながら、無頼漢なんぞになったのだろう。」
「それは君の云うのとちがった意味で、人間はあてにならないからだ。」
 木村少佐は新しい葉巻に火をつけてから、ほとんど、得意に近いほど晴々はればれした調子で、微笑しながらこう云った。
「我々は我々自身のあてにならない事を、痛切に知って置く必要がある。実際それを知っているもののみが、幾分でもあてになるのだ。そうしないと、何小二の首が落ちたように、我々の人格も、いつどんな時首が落ちるかわからない。――すべて支那の新聞と云うものは、こんな風に読まなくてはいけないのだ。」(芥川龍之介『首の落ちた話』)

 あの芥川にして森鴎外が「半信半疑」となり夏目漱石が「これは神聖か罪悪か」と問うところの問題、乃木大将が奥さんを道連れにしたことに関しては気が付いていないようだ。しかし「自殺の前に写真を撮らせた将軍」に対する違和感を指摘する。芥川作品の多くは「逆説」を核としている。そうではないのではないか、普通はそうであるかもしれないが、逆ではないのか、というスタイルが例えば『鼻』には見られる。

 この『首の落ちた話』『将軍』もそういうスタイルの作品だと捉えてもよいだろう。乃木大将を簡単に聖人にしてしまわない点においては夏目漱石の『趣味の遺伝』とも共通している。また『首の落ちた話』に関して言えば、生き残った者に必ずしも生き残った者としてのしがらみが起るものではないと指摘しているかのようにも思える。

 ステッセルは降った。講和は成立した。将軍は凱旋した。兵隊も歓迎された。しかし浩さんはまだ坑から上って来ない。図はからず新橋へ行って色の黒い将軍を見、色の黒い軍曹を見、背の低い軍曹の御母さんを見て涙まで流して愉快に感じた。同時に浩さんはなぜ壕から上がって来こんのだろうと思った。浩さんにも御母さんがある。この軍曹のそれのように背は低くない、また冷飯草履を穿いた事はあるまいが、もし浩さんが無事に戦地から帰ってきて御母さんが新橋へ出迎えに来られたとすれば、やはりあの婆さんのようにぶら下がるかも知れない。浩さんもプラットフォームの上で物足らぬ顔をして御母さんの群集の中から出てくるのを待つだろう。それを思うと可哀そうなのは坑を出て来ない浩さんよりも、浮世の風にあたっている御母さんだ。塹壕に飛び込むまではとにかく、飛び込んでしまえばそれまでである。娑婆の天気は晴であろうとも曇であろうとも頓着はなかろう。しかし取り残された御母さんはそうは行かぬ。そら雨が降る、垂たれ籠こめて浩さんの事を思い出す。そら晴れた、表へ出て浩さんの友達に逢あう。歓迎で国旗を出す、あれが生きていたらと愚痴っぽくなる。洗湯で年頃の娘が湯を汲んでくれる、あんな嫁がいたらと昔を偲ぶ。これでは生きているのが苦痛である。それも子福者であるなら一人なくなっても、あとに慰めてくれるものもある。しかし親一人子一人の家族が半分欠けたら、瓢箪の中から折れたと同じようなものでしめ括りがつかぬ。軍曹の婆さんではないが年寄りのぶら下がるものがない。御母さんは今に浩一こういちが帰って来たらばと、皺だらけの指を日夜にちやに折り尽してぶら下がる日を待ち焦こがれたのである。そのぶら下がる当人は旗を持って思い切りよく塹壕の中へ飛び込んで、今に至るまで上がって来ない。白髪は増したかも知れぬが将軍は歓呼の裡に帰来した。色は黒くなっても軍曹は得意にプラットフォームの上に飛び下りた。白髪になろうと日に焼けようと帰りさえすればぶら下がるに差し支えはない。右の腕を繃帯ほうたいで釣るして左の足が義足と変化しても帰りさえすれば構わん。構わんと云うのに浩さんは依然として坑から上がって来ない。これでも上がって来ないなら御母さんの方からあとを追いかけて坑の中へ飛び込むより仕方がない。(夏目漱石『趣味の遺伝』)

 これではまるで「浩さん」は死んでよかった、残された家族の方が気の毒だと書かれているようでさえある。このなんとも人を馬鹿にしたような書きっぷりは、漱石を「俗中の俗」とみなした太宰治に受け継がれる。

 難破して、わが身は怒濤に巻き込まれ、海岸にたたきつけられ、必死にしがみついた所は、燈台の窓縁である。やれ、嬉しや、たすけを求めて叫ぼうとして、窓の内を見ると、今しも燈台守の夫婦とその幼き女児とが、つつましくも仕合せな夕食の最中である。ああ、いけねえ、と思った。おれの凄惨な一声で、この団欒が滅茶々々になるのだ、と思ったら喉まで出かかった「助けて!」の声がほんの一瞬戸惑った。ほんの一瞬である。たちまち、ざぶりと大波が押し寄せ、その内気な遭難者のからだを一呑みにして、沖遠く拉らっし去った。
 もはや、たすかる道理は無い。
 この遭難者の美しい行為を、一体、誰が見ていたのだろう。誰も見てやしない。燈台守は何も知らずに一家団欒の食事を続けていたに違いないし、遭難者は怒濤にもまれて(或いは吹雪の夜であったかも知れぬ)ひとりで死んでいったのだ。月も星も、それを見ていなかった。しかも、その美しい行為は厳然たる事実として、語られている。(太宰治『一つの約束』)

 この遭難者は兵隊さんではないかもしれない。しかしこのロジックは見事に兵隊さんに直接振り向けられる。

 第一線に於いて、戦って居られる諸君。意を安んじ給え。誰にも知られぬ或る日、或る一隅に於ける諸君の美しい行為は、かならず一群の作者たちに依って、あやまたず、のこりくまなく、子々孫々に語り伝えられるであろう。日本の文学の歴史は、三千年来それを行い、今後もまた、変る事なく、その伝統を継承する。(太宰治『一つの約束』)

 なんともお気楽な、あっけらかんとした理屈であろうか。ここまで見てきた三人の作家には見事にサバイバーズ・ギルトがない。戦争の谷間に生きた芥川は別として、夏目漱石と太宰治はいずれも「徴兵を免れた者」であり、サバイバーズの定義には当てはまる。それなのにどの作品を見ても、生き残った者の罪の意識というものがまるで感じられない。敢えて言えば夏目漱石『こころ』や太宰治の『ダス・ゲマイネ』や『秋風記』に戦争という色のつかない生き残った者の罪の意識が現れるものの、彼らの戦争に対する意識は殆ど「戦争を知らない子供たち」なみに他人事だ。

 このことを考えると私には徴兵逃れで転籍し、戦争など(勝とうが負けようが)早く終われば良いと思いながら『古今和歌集』を読んで過ごしていた三島由紀夫が、過剰とも言えるようなサバイバーズ・ギルトを引き受けたかのように見えることがむしろ不思議に思えてくる。「自分は上手くやった、なんとか生き延びることができた、自分は幸福だった」と素直に喜べなかった理由の一つは、戦前から『文藝文化』を通して関係のあった保田與十郎の変遷と蓮田善明の壮絶な死という二つの両極端を見せられたことにあったことは疑い得ない。しかし私は三島由紀夫にとっては「戦争」や「天皇」であってさえ単なる「季語」でしかないのだったのではないかという疑いを捨てられない。

 小説の技巧も数えれば万とあろうが、古来より和歌を詠じてきた日本文学においてその最も重要で根本的なものは何かと問えば、それは「省略法」だと言えるのではなかろうか。言葉は常に場に寄り掛かり、あることを語り、あることを語り残す。短詩型においてはその語り残される領域は果てしなく、少なき言の葉でいかに広く深いものを捉えるかという試みが練り続けられている。饒舌な散文小説において、「省略法」は「場面転換」の役割も受け持つ、時間の流れを断ち切りクロニクルを拒絶する。結果として三島由紀夫の遺作となった『豊饒の海』では第二次世界大戦がすっぱりと省略されている。その意味はさして明確ではない。理屈を言えば三島由紀夫は戦記を語り得るような戦争体験をしていない。だがそれだけではなかろう。調べ上げれば書くことはできた筈だ。だが三島は書かなかった。『豊饒の海』において第二次世界大戦は不要だったのだ。

 三島由紀夫は『鏡子の家』でぼんやりとした戦後を書き、大変な不評に落胆した。三島自身は戦時中ではなく、戦後のニ三年が最も暗い時代だったと語る。戦後嬉々として活躍したデカダン三銃士とは大違いで、三島は戦後になってから、戦争が済んでからじわじわと戦争を引き受けたかのように語る。芥川作品の核が逆説ならば、三島作品の核は「大真面目」だろうか。どうにも嘘としか思えないものも三島の「大真面目」の前では信じる人も出てくる。三島は大真面目にこっくりさんをやった。太宰はその未来を「ワザ、ワザ」と冷やかしている。太宰の核は厭味だ。

※夏目漱石の俳句に「生残る吾恥かしや鬢の霜」(明治四十三年)があるがこれは戦争とは関係なかろう。「太刀佩くと夢みて春の晨哉」(明治二十九年)も。




尾崎紅葉やその門下友人、又森配外夏目漱石等日露戰役の享樂派の大將となつた人々.の生き殘り生活の哲學とは異つた人生觀をむして居つた所に被發のある。永久の生命は此の世に於ける流行によつて定まる者ではない。(『高山博士の樗牛全集から』三井甲之 著名著評論社 1914年)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?