これは田山花袋本名での寸評である。論と言うほどのものではないが基本的に間違っているところを指摘しておく。
まず「心理を描出しやう」として「説明的学究的の弊に堕して居る」と言いたいところが理解できないでもない。これまでの作品、その後の作品と比べても話者の代助の心理に関する言及はかなり抽象度が高く、言い回しが硬直で、理屈っぽく感じられる。
一読して何が書かれているのか理解できるものはまずなかろう。Audibleで聞き流して、意味が解るものではない。しかしこれはかなり抽象的ではあるもののけして学究的な説明ではない。三四郎が現実世界に振り回されて己の心理というものに頓着できなかったのに対して、(つまり自分の美禰子に対する気持ちがどう、美子に対してはどうと分析的に考えられなかったのに対して)、代助は話者によって「ああでもありこうでもある」とより複雑に見せかけられているだけで、肝腎な部分では「引力」という素朴な理屈で済まされる。
難しそうに書かれているが、生きたがる男代助の「血潮によって打たるる掛念のない、静かな心臓」の話に比べれば、ここは全然難しくはない。要するに都会の男女はそれぞれ惹かれ合うと言っているのに過ぎない。そこに「両性間の引力(アットラクション)」と難しそうな言葉を当て嵌めているだけで、男女が惹かれ合うなど万葉歌の時代からの常識だ。
さらに言えば、一番肝心な部分では「心理」すら描かず、自己決定と自由意志の問題を学究的に「説明しない」という荒業を見せる。
この「告白」は「普通の愛人の用いる様な甘い文彩を含んでいなかった」とあるとおり、代助の三千代に対する愛情を明かしていない。存在に必要だというだけで、好きだとは言っていない。むしろ先ほどの引力理論によれば、受け身なのである。だから「三千代の引力を恐れた」とも書かれているわけである。
田山花袋の寸評は漱石の言い回しの難しそうなところに誤魔化されて、代助が近代的自我などというものではないものによって動かされていることを見落としている。
そして「最後にある赤い色に見えると言つたやうな所も、何となく持つて行つてくつ付けたやうで厭な感じがした」と書くからには、冒頭の椿から、血潮から、赤い唇、赤い頬、赤い眼、アマランスの赤い弁などと言った赤と「出来得るならば、自分の頭だけでも可いいから、緑のなかに漂わして安らかに眠りたい位である」という代助の赤と緑(青)の間の葛藤が見えていないことになる。
色に興奮し、色で安静になるのが心理なら、心理とはひどく受け身なものである。
この時代に郵便ポストを赤くしたのも、電柱を赤くしたのも、煙草屋の暖簾を赤くしたのも代助ではない。そこに漱石の責任はない。
つまり漱石が取って付けたのではなく、時代が赤に向かっていたのである。代助はその時代の風を受けて矢印となる風見鶏に過ぎない。
この後高等教育を受けながら食のない学士が増えて社会問題化し、いっそのこと学校を減らそうかという議論まで起こる。個人のクッツイタカハナレタカの問題を別にして、代助が時代の風俗を生きていたことは確かである。これをとってつけたと言われると流石に困る。
たまたま代助は親が裕福だが、平岡などは銀行を辞めると忽ち困窮する始末。資本主義社会というものが出来つつあった当時、文科の学士には教師くらいしか職がなかった。なおかつ家を持てば女房一人ではなく下女や仲働きまで養わなければならず、現在のように共働きのパワーカップルなんていうものもなかった。
そういう時代感覚を持っているはずの田山花袋がこんなことを書いてしまうので始末に悪い。
さらに当時の電車事情も知っている田山花袋なら、高田馬場、茅場町、水天宮あたりからすごすごと引き返してくる結末が見えたはずでもあろう。山手線じゃないんだから、そういつまでもぐるぐるしているわけにはいかない。