見出し画像

読み誤る漱石論者たち 阿刀田高③ 『それから』はどうしてそれから?

 読み落としは読み誤りとは違うのではないか、気が付いていないことがあるだけで、読み誤りとは言えないのではないか、

 この記事を読んでそんなことを思う人がいるかもしれない。しかし私が言っているのは、最低限ここまでは読めていないといけないという最低ラインに達っしていないのに解った風に書いてしまうのはどうなのかということだ。清を「ねえや」にしてしまうのは誤読だ。汚染データだ。漱石が意図して『三四郎』では徹底して色を隠しているのに、そのことに気がつかないで「色の出し方がなかなか洒落ていますね」という下げ、落ちが解らなければ、これは落語の下げ、落ちが解らなかったようなもので、誤った読みということになるのではなかろうか。つまり英語のジョークを読んで面白さに辿り着けなかったとき、それは読んだとは言えないだろうし、何か肝心なところを読み落としたか、読み誤ったかと反省すべきだろう。

 阿刀田高は『それから』の予告を引き、色々な意味でそれからであることを確認している。

 色々な意味に於てそれからである。「三四郎」には大学生の事を描いたが、此の小説にはそれから先の事を書いたからそれからである。「三四郎」の主人公はあの通り単純であるが、此主人公はそれから後の男であるから此点に於ても、それからである。此主人公は最後に、妙な運命に陥る。それからさき何がどうなるかは書いてない。此意味に於ても亦それからである。(夏目漱石『それから』予告)

 であれば『それから』と『三四郎』の関係が解っていなければならない。つまり、

 世の中にいて、世の中を傍観している人はここに面白味があるかもしれない。どうもあの水蜜桃の食いぐあいから、青木堂で茶を飲んでは煙草を吸い、煙草を吸っては茶を飲んで、じっと正面を見ていた様子は、まさにこの種の人物である。――批評家である。――三四郎は妙な意味に批評家という字を使ってみた。使ってみて自分でうまいと感心した。のみならず自分も批評家として、未来に存在しようかとまで考えだした。あのすごい死顔を見るとこんな気も起こる。(夏目漱石『三四郎』)

 ……と考えていた三四郎に対して、学校騒動から郊外の小さな家、麺麭の為に働く人や日本の外交迄批評して見せる代助が眼球から色彩を出す批評家になっていることを見なくてはなるまい。

 読むということはそういうことではなかろうか。

 たとえばこの『秋風』という小品は、なんとなく読んだ気になる事が出来る話だ。書いてあることをざっと読むとなんだかぼんやりした話で、納得感がない。食べ物の話か、と流してしまう人もいる。しかしそこでちょっと立ち止まって『秋風』という題の意味を考えると、ああそうかと腑に落ちる。腑に落ちたところで先に進める。

 阿刀田高は「眼に映る街に眩暈を覚えながら、目的もないまま電車で行くところで小説は終わっている」と読む。

 飯田橋へ来て電車に乗った。電車は真直に走り出した。代助は車のなかで、
「ああ動く。世の中が動く」と傍の人に聞える様に云った。彼の頭は電車の速力を以て回転し出した。回転するに従って火の様に焙って来た。これで半日乗り続けたら焼き尽す事が出来るだろうと思った。
 忽ち赤い郵便筒が眼に付いた。するとその赤い色が忽ち代助の頭の中に飛び込んで、くるくると回転し始めた。傘屋の看板に、赤い蝙蝠傘を四つ重ねて高く釣るしてあった。傘の色が、又代助の頭に飛び込んで、くるくると渦を捲いた。四つ角に、大きい真赤な風船玉を売ってるものがあった。電車が急に角を曲るとき、風船玉は追懸けて来て、代助の頭に飛び付いた。小包郵便を載せた赤い車がはっと電車と摺れ違うとき、又代助の頭の中に吸い込まれた。烟草屋の暖簾が赤かった。売出しの旗も赤かった。電柱が赤かった。赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。仕舞には世の中が真赤になった。そうして、代助の頭を中心としてくるりくるりと焔の息を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗って行こうと決心した。(夏目漱石『それから』)

 この記述を阿刀田高はぎゅっと縮めて「眩暈」としてしまうのだが、私には鏡子夫人が云うところの「頭の悪い」時の漱石の紅潮した様子が思い浮かぶ。では「眩暈」ではだめなのかと云えば、やはり評価する上では「赤」を捉えていないので駄目だろうと考えている。『それから』は「赤」の小説だと見做す江藤淳はやはり駄目で、この「赤」は「緑」との対比としての「赤」と見なければなるまい。全体が赤い郵便ポストは『それから』が書かれる前年から普及した。だから「赤い郵便筒」は良いだろう。

 凧屋の章魚を竿に吊りて揭ぐるは國音通ずるによる。烟草屋の暖簾の常に柿色なる、氷屋の暖簾の寒冷紗に藍の波を畫くも習となれり大方は坪井氏の看板考に載せたれば、こゝには撃略しぬ。(『東京風俗志 上』平出鏗二郎 著富山房 1902年)

 東京では煙草屋の暖簾はいづれも赤茶色になつて居ます。(『通俗心理奇問正答』宮武外骨, 高島平三郎 著文武堂書店 1918年)

 ……とあるので「烟草屋の暖簾」も良いだろう。

 赤い電柱が見えたり、走つてゐる電車が見えたりした。また坂の下には寄席の看板が見えた。(『白痴』小川未明 著文影堂書店 1913年)

赤い電柱が泣いてゐるやうに淋しく立つてゐる。其處を曲つて森の方に來ると公園の入口であつた。靑銅で鑄られた門が立つて居る。彼は其門を通つて公園の中に入つた。(『明治小説文章変遷史||明治小説内容発達史』徳田秋声 述||田山花袋 述文学普及会 1914年)

 ……という記述もあるので、「電柱」もいいだろう。しかし「仕舞には世の中が真赤になった」というところでは眩暈ではなく、「眼球から色彩を出す批評家」を見なくてはならないだろう。そして、

 代助は何故なぜダヌンチオの様な刺激を受け易やすい人に、奮興色とも見傚し得べき程強烈な赤の必要があるだろうと不思議に感じた。代助自身は稲荷の鳥居を見ても余り好い心持はしない。出来得るならば、自分の頭だけでも可いいから、緑のなかに漂わして安らかに眠りたい位である。いつかの展覧会に青木と云う人が海の底に立っている脊の高い女を画いた。代助は多くの出品のうちで、あれだけが好い気持に出来ていると思った。つまり、自分もああ云う沈んだ落ち付いた情調に居りたかったからである。(夏目漱石『それから』)

 このように緑の世界に浸りたかった代助が赤の世界に引き出されてしまった時代を見なくてはならない。高等遊民は時代の産物である。ここで郵便ポストが持ち出されることに文明批評がある。この間まで黒かった郵便ポストが真っ赤になる時代に代助は引き出されたのだ。

 その代り脇差程も幅のある緑の葉が、茎を押し分けて長く延びて来た。古い葉は黒ずんだまま、日に光っている。その一枚が何かの拍子に半分から折れて、茎を去る五寸ばかりの所で、急に鋭く下ったのが、代助には見苦しく見えた。代助は鋏を持って縁に出た。そうしてその葉を折れ込んだ手前から、剪って棄てた。時に厚い切り口が、急に煮染む様に見えて、しばらく眺めているうちに、ぽたりと縁に音がした。切口に集ったのは緑色の濃い重い汁であった。代助はその香を嗅ごうと思って、乱れる葉の中に鼻を突っ込んだ。縁側の滴はそのままにして置いた。立ち上がって、袂から手帛を出して、鋏の刃を拭いている所へ、門野が平岡さんが御出ですと報せて来たのである。代助はその時平岡の事も三千代の事も、まるで頭の中に考えていなかった。只不思議な緑色の液体に支配されて、比較的世間に関係のない情調の下に動いていた。それが平岡の名を聞くや否や、すぐ消えてしまった。そうして、何だか逢いたくない様な気持がした。(夏目漱石『それから』)

 平岡も三千代も「赤」である。赤がくるくるの結末は椿が落ちる冒頭で予告されていたものだ。生きたがる男・代助は世の中にいて、世の中を傍観している人でいられなくなるのだ。阿刀田高は「目的もないまま」としているが、はっきりこう書いてある。「代助は自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗って行こうと決心した」という意思はある。目的は頭を焼き尽くすことである。

 この電車が路面電車だと飯田橋から大きく曲がる大曲の停車場を経て、作中現れる様々な経路への移動が予測されるが、『三四郎』のそれからならば、実は甲武線の中野行きで、中野あたりからとぼとぼ引き返す落ちもありではないかと考えてみる。

 ところで『それから』はなかなか凝った小説で、

 牛込見附を這入って、飯田町を抜けて、九段坂下へ出て、昨日寄った古本屋まで来て、
「昨日不要の本を取りに来てくれと頼んで置いたが、少し都合があって見合せる事にしたから、その積りで」と断った。帰りには、暑さが余り酷かったので、電車で飯田橋へ回って、それから揚場を筋違に毘沙門前へ出た。(夏目漱石『それから』)

 ……とあるも恐らく「毘沙門前」は停車場の名ではなく、大体の位置、地名である。代助の家はどうやら善國寺の側、神楽坂付近らしい。まず代助は歩いて飯田橋の停車場に移動、「電車が急に角を曲るとき」とあることから飯田橋から向かって行く先は、牛込見附、四谷見附、市谷見附と進むなだらかな経路ではなく、筑土八幡、牛込北町、牛込柳町、若松町へと進む経路でもないことが解る。

 すると残された経路は大曲、江戸川橋を経て高田馬場駅前に向かう経路、そして九段下、専修大学、神保町を経て茅場町へ向かう経路、そして水道橋、お茶の水、万世橋を経て水天宮に向かう経路が考えられる。乗り換えをしなければそれぞれ終点は高田馬場駅、茅場町、水天宮である。案外遠くにはいかない。歩いて歩けない距離ではない。と考える。つまり半日どころか、小一時間も乗っていられないのではないかと考える。

 読むということはこういうことではなかろうか。


【余談】海の底に立っている脊の高い女

この女は背の高い大塚楠緒子を思わせる。

 また、

水の底、水の底。住まば水の底。深き契り、深く沈めて、永く住まん、君と我。
黒髮の、長き亂れ。藻屑もつれて、ゆるく漾ふ。夢ならぬ夢の命か。暗からぬ暗きあたり。
うれし水底。清き吾等に、譏り遠く憂透らず。有耶無耶の心ゆらぎて、愛の影ほの見ゆ。(夏目漱石「水底の感」)

 この謎の詩を思い出させる。








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?