読み落としは読み誤りとは違うのではないか、気が付いていないことがあるだけで、読み誤りとは言えないのではないか、
この記事を読んでそんなことを思う人がいるかもしれない。しかし私が言っているのは、最低限ここまでは読めていないといけないという最低ラインに達っしていないのに解った風に書いてしまうのはどうなのかということだ。清を「ねえや」にしてしまうのは誤読だ。汚染データだ。漱石が意図して『三四郎』では徹底して色を隠しているのに、そのことに気がつかないで「色の出し方がなかなか洒落ていますね」という下げ、落ちが解らなければ、これは落語の下げ、落ちが解らなかったようなもので、誤った読みということになるのではなかろうか。つまり英語のジョークを読んで面白さに辿り着けなかったとき、それは読んだとは言えないだろうし、何か肝心なところを読み落としたか、読み誤ったかと反省すべきだろう。
阿刀田高は『それから』の予告を引き、色々な意味でそれからであることを確認している。
であれば『それから』と『三四郎』の関係が解っていなければならない。つまり、
……と考えていた三四郎に対して、学校騒動から郊外の小さな家、麺麭の為に働く人や日本の外交迄批評して見せる代助が眼球から色彩を出す批評家になっていることを見なくてはなるまい。
読むということはそういうことではなかろうか。
たとえばこの『秋風』という小品は、なんとなく読んだ気になる事が出来る話だ。書いてあることをざっと読むとなんだかぼんやりした話で、納得感がない。食べ物の話か、と流してしまう人もいる。しかしそこでちょっと立ち止まって『秋風』という題の意味を考えると、ああそうかと腑に落ちる。腑に落ちたところで先に進める。
阿刀田高は「眼に映る街に眩暈を覚えながら、目的もないまま電車で行くところで小説は終わっている」と読む。
この記述を阿刀田高はぎゅっと縮めて「眩暈」としてしまうのだが、私には鏡子夫人が云うところの「頭の悪い」時の漱石の紅潮した様子が思い浮かぶ。では「眩暈」ではだめなのかと云えば、やはり評価する上では「赤」を捉えていないので駄目だろうと考えている。『それから』は「赤」の小説だと見做す江藤淳はやはり駄目で、この「赤」は「緑」との対比としての「赤」と見なければなるまい。全体が赤い郵便ポストは『それから』が書かれる前年から普及した。だから「赤い郵便筒」は良いだろう。
……とあるので「烟草屋の暖簾」も良いだろう。
……という記述もあるので、「電柱」もいいだろう。しかし「仕舞には世の中が真赤になった」というところでは眩暈ではなく、「眼球から色彩を出す批評家」を見なくてはならないだろう。そして、
このように緑の世界に浸りたかった代助が赤の世界に引き出されてしまった時代を見なくてはならない。高等遊民は時代の産物である。ここで郵便ポストが持ち出されることに文明批評がある。この間まで黒かった郵便ポストが真っ赤になる時代に代助は引き出されたのだ。
平岡も三千代も「赤」である。赤がくるくるの結末は椿が落ちる冒頭で予告されていたものだ。生きたがる男・代助は世の中にいて、世の中を傍観している人でいられなくなるのだ。阿刀田高は「目的もないまま」としているが、はっきりこう書いてある。「代助は自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗って行こうと決心した」という意思はある。目的は頭を焼き尽くすことである。
この電車が路面電車だと飯田橋から大きく曲がる大曲の停車場を経て、作中現れる様々な経路への移動が予測されるが、『三四郎』のそれからならば、実は甲武線の中野行きで、中野あたりからとぼとぼ引き返す落ちもありではないかと考えてみる。
ところで『それから』はなかなか凝った小説で、
……とあるも恐らく「毘沙門前」は停車場の名ではなく、大体の位置、地名である。代助の家はどうやら善國寺の側、神楽坂付近らしい。まず代助は歩いて飯田橋の停車場に移動、「電車が急に角を曲るとき」とあることから飯田橋から向かって行く先は、牛込見附、四谷見附、市谷見附と進むなだらかな経路ではなく、筑土八幡、牛込北町、牛込柳町、若松町へと進む経路でもないことが解る。
すると残された経路は大曲、江戸川橋を経て高田馬場駅前に向かう経路、そして九段下、専修大学、神保町を経て茅場町へ向かう経路、そして水道橋、お茶の水、万世橋を経て水天宮に向かう経路が考えられる。乗り換えをしなければそれぞれ終点は高田馬場駅、茅場町、水天宮である。案外遠くにはいかない。歩いて歩けない距離ではない。と考える。つまり半日どころか、小一時間も乗っていられないのではないかと考える。
読むということはこういうことではなかろうか。
【余談】海の底に立っている脊の高い女
この女は背の高い大塚楠緒子を思わせる。
また、
この謎の詩を思い出させる。