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田山花袋は、大きなお世話だもの

 それから、この人はよく人の世話を焼いて、意見がましいことを言ふのが癖だが、私も草平氏もその一人だが、こいつは御免を蒙りたいと思ふ。一体、大きなお世話だもの。漱石氏のものが日本の文壇の一番すぐれたものだなどゝいふ人の鑑定だもの、意見だもの、高が知れてゐるのはきまつてゐる。それでゐながら、この人は、意見の押売をして、そして恩を被きせてゐるのだから猶更やりきれない。
 だから、『大乗仏教風の理想主義』などゝ言ふ不徹底なことを言つたり、平等を同等と同じ様に見たりするのである。

(田山録弥『孤独と法身』)

 ここで田山花袋にディスられているのは和辻哲郎である。

 田山花袋という人は「和辻君などは、もう少し謙譲の徳を養ふ方が好いだらうと思ふ」とついつい人を笑わせるようなことを書く。内田百閒、井伏鱒二の系譜の祖が田山花袋と思えばよかろうか。

 田山花袋が基本的に読みの水準に於いて、とても夏目漱石作品に追い付かないことについては既に述べた。

 逆にその追いつかない漱石を基準に和辻哲郎を貶しているので始末に負えない。

 私は「ソーセキイズグレイト」というもじゃもじゃ頭の人の漱石作品に対する理解を疑うが、理解できている範囲で言えば、まさに「ソーセキイズグレイト」であり、「漱石氏のものが日本の文壇の一番すぐれたものだなどゝいふ人」の鑑定が間違っているとは思わない。文体では鴎外が優れ、文章では芥川が優れ、言い回しとしては太宰が優れ、絢爛豪華では三島由紀夫が優れていると思うが、これは中島敦が泉鏡花を持ち上げるのと同じで、一つの見立てである。

 唯、批評はその中のまことなもの、正しいもの、すぐれたものをさがし出して来れば足りる。そしてそれを正しく批評すれば足りる。
 矢張、批評も傍観的、法身的でなければならないのである。まことなもの、すぐれたものは、竟に竟に金剛不壊である。

(田山録弥『孤独と法身』)

 この視点に立てば「まことなもの、すぐれたものは」漱石であるべきだと考えている。確かに『明暗』が未完に終わったことで「則天去私」は完成されず、漱石文学というものは芥川龍之介に継承されたのかどうなのか分からないままなので、極北の史伝文学に没した鴎外の孤高さの方が勝っている感じというものはある。
 ヒット作のない幸田露伴は忘れられ、志賀直哉と川端康成は各々の頂点を極めたように思われる。漱石とすれ違った天才谷崎潤一郎は、大谷崎となった。

 しかし虚心に省みれば、やはり「ソーセキイズグレイト」なのである。

 このことは細かいところに気が付かなければ決して見えてこない。しかし細かいことが見えなければ、そもそも何も見える訳はないのだ。そんな人は……。


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