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「ふーん」の近代文学③ 悪いことばかりじゃない

あれもこれもなくなった


大菩薩峠 第15冊 中里介山 著大菩薩峠刊行会 1939年


 おそらく芥川龍之介は夏目漱石の「則天去私」を継承しなかった。というよりも遺作『明暗』からして、何が「則天去私」なのか判然としない。小手先で誤魔化したようなこじつけはいくつか見たことはあるが、『明暗』のどこが「則天去私」なのか理路整然と説明した文章を私はこれまで一度も目にしていない。

 しかしそう気が付いてみると「写生文」にしても「非人情小説」にしてもいつの間にかどこかに消えてしまった感がある。

 しかしことは何も夏目漱石に限った話ではないのだ。近代文学は「ふーん」され続けて来たのだ。岩野泡鳴の「一元描写」論や「神秘的半獣主義」はともかく、花田清輝の総合芸術・共同制作の試みも、碧梧桐のルビ俳句も、いや近代文学に関するありとあらゆるものは殆ど「ふーん」されてきたのだ。

 試みに再確認してみれば、

 言文一致の流れはほとんど忘れられている。二葉亭四迷以外が話題になることは殆どない。そして今現在書き言葉と話し言葉は既にかなり乖離している。「です」「ます」に「よ」「ね」が付き、「た」は尻切れ感があるのでほぼ使われず、「だ」にはやはり「よ」「ね」が付く。話し言葉では多用される「えーっと」は書き言葉にはほぼ現れず、「だからさあ」「って感じなのよね」は会話文の直接話法のみに現れる。つまり書き言葉ではなく話し言葉だ。

 ことほど左様に昔の「なりけり」ほどではないにせよ、今の「ですます」「た、だ」は古くさくなってしまっている。この「る」も話し言葉では「ね」「よ」「よね」が付く。しかし現在言文一致の流れはない。

 また観念小説、深刻小説、社会小説、家庭小説という概念そのものがどこかに行ってしまった。

明治文学十二講 宮島新三郎 著新詩壇社 1925年

 観念小説、深刻小説、社会小説、家庭小説の考え方が全く陳腐なものになったわけではない。多くの小説は今でも観念小説、深刻小説、社会小説、家庭小説でありうる。ただ、ともかくあれもこれもなくなった。「ふーん」されて消えて行った。「中央公論」が「反省雑誌」だったことも忘れられている。「かなのくわい」も忘れられた。横山ノックが秋田Kスケだったことも忘れられた。

 そのことには残念な面もある。

 もう少し卑近な例でいうと、太宰治が夏目漱石について「俗中の俗、夏目漱石の全集」(『もの思う葦――当りまえのことを当りまえに語る。』)と書いているのを「ふーん」と流していなければ、『人間失格』で笑えるはずなのだ。

しかし私はこれまで『人間失格』で大笑いしたという人を知らない。

 ある意味ほぼすべての読者は「ふーん」をするために近代文学を読んできたと言えないだろうか。ポストモダン、ポスト・ポストモダンが生まれ続ける歴史のうねりをつくりだしたものが「ふーん」なのではなかろうか。改良主義・折衷主義ではなく、あらゆるものに対する無関心が近代文学の正体ではないのか。

 無論無関心は罪ではない。夏目漱石は戦争には「ふーん」の態度をとった。何なら傷つきさえしなかった。三島由紀夫が戦争を過剰に引き受けたことの方がむしろ真面に思えるほど、漱石の「ふーん」は徹底していた。また漱石は谷崎潤一郎にも「ふーん」したように思える。しかし谷崎は「うーん」するべき作家であった。

 村上春樹は三島由紀夫を「ふーん」した。伊東静雄も三島由紀夫を「ふーん」した。三島由紀夫は夏目漱石と松本清張を「ふーん」した。「うーん」とか「へえー」の関係は芥川に対する太宰治、森鴎外に対する芥川など、むしろごく一部に限られる。

 全ての物事には良い面と悪い面がある。「ふーん」の悪い面は、岩波の『定本漱石全集』のように杜撰な注解が印刷されてしまうことだ。

 これはいけない。編集者は「ふーん」してはいけない。

 夏目漱石の戦争に対する「ふーん」はまたかなり独特の意地の張り方ではあるし、お気楽と言えばお気楽ながら、全体として見ればやはり良かったことにならないだろうか。

 私は現在の書き言葉が話し言葉を「ふーん」と無視して、辛うじて夏目漱石、芥川龍之介の日本語と繋がっていることを「良きこと」だと感じている。実感として幸田露伴や泉鏡花はもう古い。話し言葉に敏感な言文一致運動によって「ね」「よ」式の書き言葉が中心になって十年も経てば、夏目漱石も芥川龍之介も途端に古くなってしまっていたかもしれない。そう思えばある程度「ふーん」と鈍感であることにも意味はなくないとは思う。

 それにしたってあんまりひどいのはどうなのよ。

 個人的には結核あたりから写生文を考え直したりする行為そのものは「何かを書く」というだけではない意味を持った面白いものだとは思う。それはもう本が売れるとか売れないという話は別にして面白い。

 そして国学なんかで考えても、

 荷田春満などは山田孝雄に「ふーん」されているわけだし、

 芭蕉なんて蛙を蟇にすり替えてしまうわけだし、

 日本語は消えて行くものだ。そのはかないものが美しい。そこがおもしろい。「ふーん」されなくては消えてはいかない。しかし「ふーん」するのだ。

 この死屍累々の日本語と云うものが面白い。

 そもそも近代文学と云っても普通の人が読んでいるものは「筑摩日本文学大系」にあるようなものだが、実はその何十倍もの広がりがあることを『舞姫」の主人公をバンカラとアフリカ人がボコボコにする最高の小説の世界が明治に存在したので20万字くらいかけて紹介する本』は示している。幸田露伴にしても坪内逍遥にしてもまだ隠れた名作はある。

多くの人の「ふーん」のお蔭でこんな本も書けた。

 この現実を私が歓ぼうが悲しもうが「ふーん」は続いて行くのだろう。次に「ふーん」が現れるのは君の町かもしれない。


[付記]

 坪内逍遥で言えば、例えばこれね。


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