芥川龍之介の『本の事』をどう読むか① 『ヤクルト・スワローズ詩集』は存在するか?
こんな書き出しだからといって油断してはならない。人の悪い芥川がありのままのエッセイを書く訳ではないことは、例えば『本所両国』などに関しても「出生地に関して嘘が書かれている」と指摘される通り明らかだ。それが単なる「嘘」かどうかは別として、いや客観的な事実と食い違うことは確かなことだとして、真面目に近代文学2.0に進むのならば、そもそも芥川には「ありのままのエッセイ」などというものが可能だったのかどうか、ということを考えて行かねばならないだろう。『解嘲』『野人生計事』『文芸的な、余りに文芸的な』『八宝飯』『しるこ』『身のまはり』などを眺めてみれば、芥川龍之介にとって随筆は「筆のすさび」などとは決して呼びえない厄介なことがら、極めてアクロバティクな文章の駆け引き、傾国の大業であることが明かだからだ。
そして『本の事』は、おそらく「随筆とは何か」という問題を考える都度、繰り返し想起されねばならない問題作なのだ。
しかしそう身構える必要もなかろう。確かにこれは『本の事』という題名にふさわしい随筆に見えなくもない。そう思って読み進めると、これが『本の事』ではないことが解る。希覯書の話から、夢の話に転じる。
私はこの夢の話と云うものをなかなかそのまま受け入れる気にはならない。
これが全部本当のことか、脚色があるのかということはどうでもいい。とにかくそういう夢を見たのだろう。しかし芥川はこの『本の事』を奇妙に結び、そのことがある種の因縁を生んだように見えるのだ。
本の中の人物が書いた架空の本より夢の中に現れたQuarto 版の「かげ草」が欲しい。この理屈は解る。実際村上春樹の『風の歌を聴け』を読めば誰でもデレク・ハートフィールドの小説を読んでみたくなる。
たとえば『1Q84』を読めば『空気さなぎ』が読みたくなる。そこまでは当たり前の話だ。しかし芥川はそこから一歩進んでしまう。「この本こそ手に入れば希覯書である」と書いてしまうのだ。
手に入れば?
この結びを受けて堀辰雄はこんな事を書いてしまう。
欲しがつてゐられる?
これは勿論そうしたものが存在せず、決して手に入れられないことを前提にして書かれている……ような感じがあまりない。なにか絶対的に不可能なことを語っているようには思えないのだ。
村上春樹のオールドファンならば『一人称単数』に収められた短編が作者の過去の記憶に接近しつつもけしてエッセイなどではあり得ず、虚々実々の小説なのだと解るはずだ。しかしその事実への接近具合が『東京奇譚集』よりも生々しいところもあり、「妻」らしき存在も堂々と登場することから、若い読者の間ではかなり曖昧なものらしい。
その『一人称単数』の中に『ヤクルト・スワローズ詩集』という小説がある。自費出版されたという前提の架空の『ヤクルト・スワローズ詩集』を巡る「ない」話である。実際に『夢で逢いましょう』の中で「ヤクルト・スワローズ詩集より」という「存在しないテクストからの引用」というレトリックを体験したオールドファンをこそ混乱させるような仕掛けだ。
実際に『ヤクルト・スワローズ詩集』をメルカリで買ったという人まで現れ、事態は混沌としている。
無論ごく平たい意味ではデレク・ハートフィールドは存在せず、『空気さなぎ』という本はない。しかしマルクス・ガブリエル的な意味ではQuarto 版の「かげ草」も『ヤクルト・スワローズ詩集』も実在していることになってしまうのだということに芥川は気が付き、堀辰雄は何の閊えもなくその「ないこと」の可能性を拡げてはいまいか。
いや、馬鹿々々しい話なのだ。夢は現実ではない。夢の中に現れた本が現実に存在することは無い。これは「夢の中でこんなものを食べた」と云っているのと同じ、くだらない、どうでもいい話の筈だが、堀辰雄の屈託のない共謀によって、少し混乱してくる。
むしろ村上春樹のほうが現実的で、実は村上春樹は『ヤクルト・スワローズ詩集』を巡る仮構の現実化という遊びに作品外でもう一工夫してしまっている。『一人称単数』の中では『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』という作品で、学生の頃に書いた架空の音楽評論で取り扱った架空のレコードが実在してしまう、という不思議な話を書いて見せる。これも実際に村上春樹自身が学生時代に『問題はひとつ。コミュニケーションがないんだ』という音楽評を書いていたことを知っている者をこそ混乱させる仕掛けだ。これはむしろ現実の仮構化であろうか。
私が「これが全部本当のことか、脚色があるのかということはどうでもいい」と書いたのは『一人称単数』は明らかに小説だが、『本のこと』と『本の事』はそもそも夢という「ないこと」を書いている随筆のように思えるからだ。そう気が付いてみて随筆に「ないこと」を持ち込むという芥川の人の悪さが見えてくる。そしてそんなものをあたかも当然の権利であるかのように「欲しがつてゐられる」と広げる堀辰雄の簡単に金の借りられそうな図抜けた人の良さが見えてくる。
確かに『本の事』の夢の話の中には芥川の私生活の一部の反映があるかのように感じられる。だから随筆なのであろう。作為はないよ、と芥川は言うかもしれない。しかし本の話を夢の話に挿げ替える意匠こそ作為そのものだ。
この『本の事』が書かれた大正十年十二月には、森鴎外は腎疾患で既にかなり体調を崩していた。言い方は悪いが死にかけていた。翌年、大正十一年七月九日に死ぬ。まだ死んでいない。そのことを恐らく芥川は明確には知らないでたまたま『本の事』を書いてしまったのだろう。そして実際夢の話を書いたのだろう。
だがまだ少し早いのだ。
この段階であたかももう森鴎外が亡くなったかのような本が夢に出て來ること自体が絶妙に早いのだ。
もう一度ここを読み直すと、なんだかぼんやりと、鴎外がもう亡くなっているかのような変な設定である。春陽堂の「かげ草」は明治三十年に出版されている。しかし勿論そこには写真や書簡集は含まれない。大正十年十二月には永井荷風宛ての書簡もまだ集まらないであろう。森鴎外全集は昭和十一年まで出ない。そう思えばこの「ない」 Quarto 版の「かげ草」はただ「ない」だけではなく、イロジカルな稀覯書なのだ。
もし森鴎外がこれを読めば、「うむ」と唸らざるを得ないような稀覯な随筆、それが『本の事』だ。これが拵えた話だとしても森鴎外はやはり「うむ」と唸るだろう。
これが随筆というものなのだとしたら、随筆とは誰にでも書けるものではなかろう。森鴎外を唸らせる随筆など誰にでも書けるものではない。「僕は本が好きだから、本の事を少し書かう」という抑えた書き出しがいかにも意地が悪い。スパゲッテイを茹でながら推理小説を読んでいたら、いつの間にかノモンハンに臨場するような荒業だ。
この『本の事』の物凄さが解らないという人には、芥川の小説の凄みも永遠に届かないのだろう。この記事の面白さに気が付かない人は、今日何か厭なものを踏んでしまうだろう。
必ず。
[余談]
結構真面目に書いているつもりなのだが
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