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三島由紀夫と谷崎潤一郎① あるいは『蘿洞先生』を読む

 久しぶりに三島由紀夫が掲示板で話題にされていたのでちらりと覗いてみると、やはり酷い有様でうんざりした。テレビなどではもう少し真面に取り扱われることが多いが、やはり一般のネットユーザーからしてみれば、三島由紀夫は無計画なゲイのテロリストでしかないようだ。無論三島由紀夫もほかの文学者同様真面ではないことは間違いない。

 しかしまず「右翼」というのはシンプルな間違いである。三島の最期は「右翼たちに目にもの見せてやる」という覚悟の行動であり、最後の対談相手の「三島さんのような存在が再軍備徴兵制に利用されませんか?」という問いに「そんなことには絶対なりません」と答えていることから、適菜収が云うように三島は「保守」であり、松岡正剛が云うように「天皇を担ごうとする勢力に蓋をしたかった」という側面もあるだろう。

 ゲイであることを欠陥と見做して批判するのは今の時代けして褒められたふるまいではなかろう。計画は崩れた。それでも死ななくてはならないからくりは、本稿では説明しきれない。テロリストであることは否定しない。しかし事件後被害者を含め、三島の悪口を云う自衛官はおらず、全共闘は「三島先生の死を悼む」と立て看板を出し、右翼は「本物だったのか」と見直し、学生運動は、つまり「行動」は死を伴う過激なものに変化していった。三島のクーデターは結果として麹町警察を自衛隊駐屯地に招き入れることにより「自衛隊は治安維持のための出動どころか自衛すらできない」という大きな矛盾を突きつけた。

https://note.com/kobachou/n/nfef4963a9509

 
 三島の天皇論はアリバイだ、という人がいる。ここは一番わかり難い部分だが、もし仮にそういう意味でいえば谷崎潤一郎の痴人もまたアリバイであると言えなくもない。
 谷崎の『蘿洞先生』は雑誌の記者が哲學者蘿洞先生宅を訪ね、何を質問しても手応えがないのに閉口して、せめて家を観察しようと裏の方廻ったところ、小女に笞で尻を叩かれる蘿洞先生を半時間眺めて帰る、というなんということもない話だ。このマゾヒズムは三島の天皇論と同じであろう。
 作中記者は、こんな質問もしている。


「さう云へば此の頃、過激思想の取締りと云ふことが、大分政治家や學者の間でやかましいやうに存じますが、あれに就いて先生のお考へは?」
「う、…………う」(谷崎潤一郎『蘿洞先生』)

 わざわざこんな質問をさせておいて、答えられない程度に当時の言論統制はやかましいものだったのだろう。この秘められた反体制的態度の裏返しとして蘿洞先生は尻を叩かせる。お尻ぺんぺんは挑発でもあろう。私は痴人です、何の政治的な思想もこだわりも立派な主義もありません、敢えて言えば退廃的な悪魔主義で、マゾヒストです、どうか真面にお相手なさらぬように、と惚けているのだ。
 しかし繰り返し述べているように谷崎潤一郎はドミナの絶対性を否定しており、それが捏造されるものであることを指摘している。

 話は違ふが、人間は何かしら自分の好愛する物を拵へなければ承知しないんだと見えるね。どんなに自分の身の周りが貧弱であり、どんなに空疎な境遇にゐても、矢張何かしらその中に好きな物が出来てくる。眼に觸れるものに一つとして美に値する對象がなくなつてしまつても、それでも無理にでも見附け出す。見附け出さずには生きてゐられない。それは孤獨であればあるほど、淋しければ淋しいほど、猶さうなる。(谷崎潤一郎『アエ゛・マリア』)

 谷崎潤一郎のこのえこひいきのロジックは、絶対者が居なければ無理でも創り出さなくてはならないという三島の天皇論そのものと言ってよいだろう。そういう意味では三島の天皇論はアリバイだ。大真面目で死に狂い、増上慢の太虚である。
 谷崎作品の無思想性は、三島作品にむりやり押し込まれた思想性と同質のものではなかろうか。谷崎潤一郎という作家は、日本の思想・政治に殆ど何の影響も齎さなかったと言ってよいだろう。だから死ぬまで生きられたのだし、大谷崎と呼ばれるまでになった。それはそれでよいことだ。
 三島由紀夫の愚行は、学生運動を過激化させ、警察力の強化に繋がった。自衛隊の法的な位置づけに関しては現在も議論が続く。その一部に三島の愚行が影響していないとも言い難い。三島の愚行は作家としての寿命を縮めた。ただその作品が愚行によって汚されることはない。そんなことはあってはならない。そんな糞みその声にはいつでも靜かに反論せねばなるまい。







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