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どいつもこいつも

 佐藤春夫とは仲が悪く、三好が佐藤の家の前で「バカヤロウ」と怒鳴り走り去るとすぐさま佐藤も三好の家の前へ行き「バカヤロウ」と怒鳴り返したとのエピーソードも伝わる。ただお互い詩の才能は認めていた。

 ウイキペディアに書かれたこの三好達治と佐藤春夫のエピソードは何度読み返しても可笑しい。
 しかしウイキペディアだけに頼るのは剣呑だ。鈴木三重吉の場合、

1911年(明治44年)三重吉29歳の時、成田中学校を退職し上京、海城中学校の講師となる。同年5月、ふぢと結婚。
1916年(大正5年)、三重吉34歳の時、河上らくとの間に、長女すずが生まれる。
1921年(大正10年)10月、三重吉39歳の時に、小泉はま(濱)と再婚する。

 とあり、河上らくとは結婚しなかつたかのような説明になっている。小山文雄の『大正文士颯爽』(講談社、1995年)によれば、そもそも楽子は小宮豊隆の紹介で三重吉の許に出入りするようになった小説家志望の青年の娘で、「三重吉全集」出版の事務ともつかず、家事のお手伝いともつかず住み込むようになった女で、遊びに来た北原白秋が一目で好きになり、嫁に貰う約束をしていた。
 その楽子の妹ふゆ子とみつ子も三重吉に引き取られて、十三歳のみつ子に小島政二郎が惚れて大きくなったら妻にすると決めたものだから、小島政二郎には「十三歳子」とあだ名が付いたという。

 なんとも乱れていらっしゃる。その小島政二郎のウイキペディアには、

『聖体拝受』で谷崎潤一郎の『痴人の愛』が、義妹との実事に基づくという文壇における公然の秘密を書き記し、

 とあるから何ともおかしい。谷崎の「実事(夫婦でない男女の情交)」が文壇における公然の秘密とはいささか大げさではなかろうか。初期作品を順に読んで行けば、何をいまさらと云う話ではなかろうか。

 そういえば北原白秋も、

白秋は隣家に住んでいた松下俊子と恋に落ちたが、俊子は夫と別居中の人妻だった。2人は夫から姦通罪により告訴され、未決監に拘置された。

 とお盛んである。無論石川啄木や永井荷風のグズエピソードはまだウイキペディアには書き込まれていない。今のところ、

この時に泥酔した基次郎は、八坂神社前の電車道で大の字に寝て、「俺に童貞を捨てさせろ」と大声で叫んだため、中谷孝雄と津守萬夫は基次郎を遊廓に連れて行った。女が来ると基次郎はげろを吐いて女を困らせたが(いくらか故意にやっていたようだったという)、やがておとなしく部屋に入っていった。

 南方熊楠か!

酔っぱらった基次郎は、愛宕参りの兵庫県の団体客の部屋にで乱入して喧嘩となり、撲られ学帽を取られた。

 裸なのに学帽だけ被っとったんか?


この秋、基次郎は酒に酔っての乱行が度を越えることもしばしばとなり、焼き芋・甘栗屋の釜に牛肉を投げ込み、親爺に追い駆けられたり、中華そば屋の屋台をひっくり返したり、乱暴狼藉を起した。放蕩の借金で下宿代も滞り、夕飯も出されなくなった。取り立てに追われて友人の下宿を転々とした。清滝の「桝屋」で泉水に碁盤を放り投げ、自分も飛び込んで鯉を追っかけ、基次郎だけ店から出入り禁止となった。金魚を抱いて寝ていたこともあったという。

 金魚死んじゃう。


円山公園の湯どうふ屋で騒ぎ、巡査に捕まり、四つん這いになり犬の鳴き真似をさせられた。

 いや、警官!


原稿用紙が部屋中に散らばり、階下の便所に行かずに、ズックカバンの中に小便を溜めてぶら下げていたという。

 漏れるって。



大雪が止んだ後、床屋に行き散髪するが釜が割れてよく濯いでもらえず石鹸の泡をつけたまま歩いて古書店を回った。銀座でフランスパンを買うが、その散歩中に神経衰弱のような気分で苛立ち、有楽町のプラットホームからガード下の通りに向って小便をかけた。

 いや、どうかしている。この梶井基次郎の記事が秀逸だ。

レモン以外の果物を眺めるのも好きであった基次郎は、湯ヶ島では川端夫人から貰った林檎を夜通し磨いてピカピカにして床の間に飾っていた。その林檎を見つけた三好達治がかじると、基次郎はいきなり無言のまま三好の頭をなぐった。

って子供か!






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