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おもはずや瓦に枝垂る暑さかな 芥川龍之介の俳句をどう読むか39
木の枝の瓦にさはる暑さかな
さあ、これは解らないぞ。さっぱり解らない。どういう状況だ。何の木だ。
まず「さはる」は、
さわ・る【障る】(さはる)
〔自ラ五(四)〕(他動詞「さう(障)」に対する自動詞)
1 妨げとなる。じゃまになる。さえぎられる。*万葉‐三九七三「あしひきの山野佐波良(サハラ)ずあまざかる夷(ひな)も治むるますらをや」*古本説話集‐五三「寺はあばれたれば、風もたまらず、雪もさはらず、いとわりなき」
2 さしつかえる。支障をきたす。都合が悪くなる。*伊勢‐四二「二日三日許さはることありて、え行かでかくなん」
3 健康がすぐれなくなる。病気になる。また、月経になることもいう。*大和‐五三「おなじ院にありける女、さはることありとてあはざりければ」
4 悪い影響を及ぼす。害になる。「体(神経・気)に障る」
こちらの意味ではなかろう。
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いまはのきはのさはりかなしき、ということもなかろう。瓦は病気にはならない。芝居のさわり、つまり出だし部分……これもないだろう。「さはり」とは言うが「さはる」とは言わないからだ。「巴旦杏」「いとど」「ほどろ」「日のにほひ」同様まず「さはる」が解らない。
木の枝が瓦の邪魔になるという状況はちょっと考えられない。むしろ瓦に心を寄せれば、樹冠が影を作り、瓦を夏の日差しから助けているということはあるかもしれない。
従って「さはる」の意味は、
さわ・る【触る】(さはる)
〔自ラ五(四)〕(動詞「さわる(障)」の、支障となる意が軽くなって派生した語。類義語の「ふれる(触)」との違いは、本来「さわる」が持続的に接触する動作であるのに対して、「ふれる」が瞬間的、すこしの時間接触するところにあると思われる)
1 手で触れる。軽く接触する。あたる。*竹取「手をささげて探(さぐ)り給ふに、手にひらめる物さはる時に」
2 かかわりあう。関係する。よりつく。近づく。→さわらぬ神に祟りなし。
3 ⇒さわる(障)4
4 (宴会の杯のやりとりの作法の一つ)相手からさされた杯を押さえて、酒をついで返す。おさえる。*浮・新吉原常々草‐下「色酒は小盃にして、さはるの間(あい)の又間のとそのゆき所に上手をつくし」
●触らぬ神に祟(たた)りなし
物事にかかわりあわなければ、わざわいを招くことはないのたとえ。
●触らば冷(ひ)やせ
(「冷やす」は切る意)さわる者がいたら切れ。さわったら切ってしまえ。江戸や近江国(滋賀県)坂本の山王祭のはやしことば。
この「ふれる」の意味であろう。
腫物にさはる柳のしなひかな 芭蕉
……のようなことか?
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下島医師が「性に響くやうな気のする」として選んだ句の一つでもある。
とはいえ、分析の詳細がないので感覚で「そうなのかなあ」と思うよりない。理屈があれば理屈で反論できるが、理屈が省かれているので困る。
玉握る褥の上も署さかな
鬼瓦ほのほ吹き出す暑さかな
竹はただ雀に動く暑さかな
切株の松に指ふく暑さ哉
一本の松に氣の寄る暑さかな
靑柳の糸もひるまぬ暑さ哉
柊のねちれて見ゆる暑さかな
白濱の光り見て增す暑さかな
ちりちりと草木の見よる暑さかな
鬼瓦眞向に見たる暑さかな
一と息を木の下につく暑さかな
義の一宇懷余る暑さかな
松見れは植る氣になる暑さかな
言ふまいと思ても言ふ暑さかな
柳さへかけのうこかぬ暑さかな
句意を求めて「暑さかな」の句を眺めてみる。このうち、
柊のねちれて見ゆる暑さかな
……の「錯覚説」を採れば、一応は筋が通るような気もする。しかし錯覚と言ってしまえば何でもありになってしまう。
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蛤の口しめてゐる暑さ哉な
芭蕉は仮託、仮想で暑さを詠んでいる。しかし、
木の枝の瓦にさはる暑さかな
これが仮託、仮想だとしたら自ら焼けに行っている。
澤瀉(オモダカ)は太り過ぎたる暑さかな
![](https://assets.st-note.com/img/1698393063699-sG7GrqY5n1.png)
嵐雪の句は一つ前の葉巻芭蕉句意に似ているか。
桐の葉に埃りのたまる暑さかな
![](https://assets.st-note.com/img/1698393441500-l3dikRQLX7.png?width=800)
必要なのは物理的な仕掛けだ。普通の木の枝は自らは動かない。
木の枝の瓦にさはる暑さかな
ここには大八つ手が垂れるような仕掛けが必要で、
そう考えると一つの可能性が出てくる。
つまり唐黍がほどろと枯るるのに対して、
この名もなき木の枝は瓦の照り返しで焼かれ、枝垂れ、自らが望むべくもない熱い瓦にさらわねばならなかったのではないか。そう考えた時この句は何か得体のしれないものを見せてくる。ここには素朴な自死ではない悲惨なものがある。木は生きている。
不本意ながら枝が焼かれているに過ぎない。瓦がいくら熱かろうと枝垂れた枝はあちちと跳ね上がることはできない。
かりにそうだったとしたならば、それはまるで昔中国で行われていた、生きたままの人間の体の一部をそぎ取る拷問のようなものではないか。
蝶が死に唐黍が立ち枯れる暑さの中を芥川龍之介は生きていた。
売文に糊口するすべなさはけふも二階の八畳にひねもすペンを動かしつづけぬ。
謎の書『澄江堂句抄』ではこんな言葉がこの句に添えられている。量り売りの売文業に俳句の密度で小説を書いて挑もうという芥川の格闘というものは確かにあった。
木の枝の瓦に枝垂る暑さかな
この句はこのような意味に解しておく。
![](https://assets.st-note.com/img/1698537640443-FUA6EBwz8b.png)
最後の日が少しだけ涼しかったのは、誰かが何かの言い訳をしたかったからかもしれない。
【余談】
だからバラッドやソネットをつくつてみようとか、俳句や短歌もつくつてみたいとか、時には与へられた限定の中で情意をつくす、そのことに不埒のあるべき筈はない。
十七文字の限定でも、時間空間の限定された舞台を相手の芝居でも、極端に云へば文字にしかよらない散文、小説でも、限定といふことに変りはないかも知れないではないか。
芥川龍之介も俳句をつくつてよろしい。三好達治も短歌も俳句もつくつてゐる。散文詩もつくつてゐる。ボードレエルも韻のある詩も散文詩もつくつてゐる。問題はたゞ詩魂、詩の本質を解すればよろしい。
主知派だの抒情派だのと窮屈なことは言ふに及ばぬ。私小説もフィクションも、何でもいゝではないか。私は私小説しか書かない私小説作家だの、私は抒情を排す主知的詩人だのと、人間はそんな狭いものではなく、知性感性、私情に就ても語りたければ物語も嘘もつきたい、人間同様、芸術は元々量見の狭いものではない。何々主義などゝいふものによつて限定さるべき性質のものではないのである。
俳句も短歌も私小説も芸術の一形式なのである。たゞ、俳句の極意書や短歌の奥儀秘伝書に通じてゐるが、詩の本質を解さず、本当の詩魂をもたない俳人歌人の名人達人諸先生が、俳人であり歌人であつても、詩人でない、芸術家でないといふだけの話なのである。
とはいえ、坂口安吾に俳句や短歌のイメージはまるでない。
この『蟹の泡』では「閑人の閑文字」「自然観照などゝいふものを私は文学だと思はない」と書いているので坂口安吾に俳句は合わないではないか。
確かに俳句には、遊びがある。「人間の切なさ格闘に根ざしてをり、美しく、凄惨で、絶唱」ではなく、少し気を抜いたところがある。元日の句を師走に書くのだから嘘がある。意地悪もある。そして慕わしさのようなものがある。
そこの味わいはやはり俳句ならではのものだ。
それから安吾よ、君、これ読んでないやろ。
夢むは遠き野のはてに
穗麥刈り干す老ふたり
仄けき雨の過ぎ行かば
虹もまうへにかかるらむ
萩原朔太郎に言わせれば詩人になれなかった芥川の格闘はこんなところにある。
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