見出し画像

芥川龍之介はガス管をくわえて死にかけていた

 本来余談に書くようなことを書いてみよう。というのもどうも読者というものには酷く偏りがあって三島由紀夫の読者は太宰治を読まないし、太宰治の読者は三島由紀夫を読まないというくだらない傾向がある。三島由紀夫は太宰を読んでいたし、太宰も漱石を読んでいる。

 芥川に対して坂口安吾が「教養がない」などと書いていることを知ると、芥川の読者は安吾に対して心を閉ざし、たちまち拒絶しかねないようなところがなかろうか。

 しかし芥川龍之介と坂口安吾は奇妙な因縁で結ばれている。芥川龍之介の甥の葛巻義敏が安吾と同級だったからだ。

 僕らが「言葉」という飜訳雑誌、それから「青い馬」という同人雑誌をだすことになって、その編輯に用いた部屋は芥川龍之介の書斎であった。というのは、同人の葛巻義敏が芥川の甥で、彼はそのころ二十一、二の若年だったが、芥川死後の整理、全集出版など責任を負うて良くやっており、同人雑誌の出版に就いても僕らの知らないことに通じていて、彼が主としてやってくれたからである。当時は芥川の死後三年目であった。
 芥川の家は僕の知る文士の家では最もましな住家だけれども、中流以上の家ではない。和風の小ざっぱりとした家で、とりわけ金をかけたと思われる部分もなく、特に凝った作りもない。僕の知るのは二階二間と離れの書斎二間と座敷二間、それから庭だけ、家族の居間は知らない。日当りの良い家だけれども、なぜか陰気で、死の家とはこんなものかと考え、青年客気のあのころですら、暗さを思うと、足のすすまぬ思いがしたものである。

(坂口安吾『青い絨毯』)

 へえそんなこともあるのかという程度の話だ。

 牧野信一の自殺した小田原の家、あの家にも暫く泊っていたことがある。お寺の隣で、前後左右墓地を通りぬけて出入するという家であり、彼が首をくくった子供部屋は三畳ぐらいの板敷きの日当り悪い陰気な部屋だが、一向に「死の家」という感じは残らぬ。
 それらの家に比べれば、芥川家は高台の日当りの良い瀟洒な家で、屋根裏、病的、陋巷、凡そ「死の家」を思わせる条件の何一つにも無関係だが、僕にとっては陰鬱極まる家であった。葛巻の起居していた二階八畳の青い絨毯など特に僕の呪ったもので、あの絨毯の陰気な色を考えると、方向を変えて、ほかの所へ行きたくなってしまったものだ。この絨毯は、僕の記憶に誤りがなければ、芥川全集の最初の版の表紙に用いた青布の残りで、部屋いっぱい敷きつめると、汚れたような黒ずんだ青だ。実に陰鬱な絨毯だ、よしたまえよ、と言って、あの頃も頻りに呪って、でも君、葛巻少年、実際彼は少年貴族という感じであったが、そういう時には急にクスリと老人のような笑い方をして言葉を濁す習慣であった。彼の好きな絨毯であったに相違ない。そして、生前の芥川には一切無関係の絨毯であったと思う。

(坂口安吾『青い絨毯』)

 こうなると、よくそんなことがあるものだと思う。牧野信一って……。

 この部屋には、違い棚の下にガス管があり、叔父(芥川のこと)がこのガス管をくわえて死にかけていたことがあってネと葛巻が言っていたが、なぜか僕は死んだあるじにひどく敵意をいだいていて、この自裁者の心事などには一向に思いを馳せていなかった。又、この部屋では、芥川の遺稿を読まされたこともある。この遺稿は数年後、再読したときに驚嘆した未完の小品で、この作品に就てはすでに二度僕の感想を発表したが、当時は全然わからなかった。否、旺盛な敵意によって、ろくろく目も通さず押し返して、つまらないと断言したのを覚えている。

(坂口安吾『青い絨毯』)

 ガス管をくわえて死にかけていたというのもすごいが、安吾が最初に読まされたのはまさに遺稿そのもので『歯車』などその題のなかったものかと思うと感慨深い。

 僕自身僕のポーズに眩惑される傾向もたしかにあるが、正しく敬虔なる心に於おいて、あの家は暗い家だと僕はやっぱり判定する。笑うなかれ。少女の祈りの如き幼い心が今なお僕の心に少しく宿り、その言葉が、あの家は暗い家だと言っている。葛巻は暗くない。芥川家は暗くない。住む人々も暗くない。婆さんに跫音がないよなどとはまこと無礼なる悪表現で僕の無躾なポーズのせいに他ならぬ。要はあの時期が暗いのだ

(坂口安吾『青い絨毯』)

 これがこの話の落ちだ。お気づきの通り安吾はもっと面白くできる話を質素に仕上げている。

 確認してもらいたい。事程左様に牧野信一にも芥川龍之介にもさしたる関心はないのだ。全くないのではなく、「ふーん」なのだ。

 当たり前だが全然ファンではない。

 だからこのくらい淡々と語ることができる。芥川龍之介がガス管をくわえて死にかけていても、そんなことはどうでもいいのだ。

 むしろおかしい。

 芥川ファンが発狂しそうな話だが読んでも損はないだろう。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?