木の枝の瓦にさはる暑さかな
さあ、これは解らないぞ。さっぱり解らない。どういう状況だ。何の木だ。
まず「さはる」は、
こちらの意味ではなかろう。
いまはのきはのさはりかなしき、ということもなかろう。瓦は病気にはならない。芝居のさわり、つまり出だし部分……これもないだろう。「さはり」とは言うが「さはる」とは言わないからだ。「巴旦杏」「いとど」「ほどろ」「日のにほひ」同様まず「さはる」が解らない。
木の枝が瓦の邪魔になるという状況はちょっと考えられない。むしろ瓦に心を寄せれば、樹冠が影を作り、瓦を夏の日差しから助けているということはあるかもしれない。
従って「さはる」の意味は、
この「ふれる」の意味であろう。
腫物にさはる柳のしなひかな 芭蕉
……のようなことか?
下島医師が「性に響くやうな気のする」として選んだ句の一つでもある。
とはいえ、分析の詳細がないので感覚で「そうなのかなあ」と思うよりない。理屈があれば理屈で反論できるが、理屈が省かれているので困る。
句意を求めて「暑さかな」の句を眺めてみる。このうち、
柊のねちれて見ゆる暑さかな
……の「錯覚説」を採れば、一応は筋が通るような気もする。しかし錯覚と言ってしまえば何でもありになってしまう。
蛤の口しめてゐる暑さ哉な
芭蕉は仮託、仮想で暑さを詠んでいる。しかし、
木の枝の瓦にさはる暑さかな
これが仮託、仮想だとしたら自ら焼けに行っている。
澤瀉(オモダカ)は太り過ぎたる暑さかな
嵐雪の句は一つ前の葉巻芭蕉句意に似ているか。
桐の葉に埃りのたまる暑さかな
必要なのは物理的な仕掛けだ。普通の木の枝は自らは動かない。
木の枝の瓦にさはる暑さかな
ここには大八つ手が垂れるような仕掛けが必要で、
そう考えると一つの可能性が出てくる。
つまり唐黍がほどろと枯るるのに対して、
この名もなき木の枝は瓦の照り返しで焼かれ、枝垂れ、自らが望むべくもない熱い瓦にさらわねばならなかったのではないか。そう考えた時この句は何か得体のしれないものを見せてくる。ここには素朴な自死ではない悲惨なものがある。木は生きている。
不本意ながら枝が焼かれているに過ぎない。瓦がいくら熱かろうと枝垂れた枝はあちちと跳ね上がることはできない。
かりにそうだったとしたならば、それはまるで昔中国で行われていた、生きたままの人間の体の一部をそぎ取る拷問のようなものではないか。
蝶が死に唐黍が立ち枯れる暑さの中を芥川龍之介は生きていた。
謎の書『澄江堂句抄』ではこんな言葉がこの句に添えられている。量り売りの売文業に俳句の密度で小説を書いて挑もうという芥川の格闘というものは確かにあった。
木の枝の瓦に枝垂る暑さかな
この句はこのような意味に解しておく。
最後の日が少しだけ涼しかったのは、誰かが何かの言い訳をしたかったからかもしれない。
【余談】
とはいえ、坂口安吾に俳句や短歌のイメージはまるでない。
この『蟹の泡』では「閑人の閑文字」「自然観照などゝいふものを私は文学だと思はない」と書いているので坂口安吾に俳句は合わないではないか。
確かに俳句には、遊びがある。「人間の切なさ格闘に根ざしてをり、美しく、凄惨で、絶唱」ではなく、少し気を抜いたところがある。元日の句を師走に書くのだから嘘がある。意地悪もある。そして慕わしさのようなものがある。
そこの味わいはやはり俳句ならではのものだ。
それから安吾よ、君、これ読んでないやろ。
夢むは遠き野のはてに
穗麥刈り干す老ふたり
仄けき雨の過ぎ行かば
虹もまうへにかかるらむ
萩原朔太郎に言わせれば詩人になれなかった芥川の格闘はこんなところにある。