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鵜呑みではない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む86 

※見出し画像は昭和天皇。

書き急ぎ

「……そう、意味がないのよ。だってはじめから、あなたは贋物だったかもしれないんですもの。いいえ、私の見るところでは、あなたはきっと贋物だわ」

(三島由紀夫『天人五衰』)

 平野啓一郎の『三島由紀夫論』「Ⅳ 『豊饒の海』論 58 「自己正当化のための自殺」」においては、本多が透の死を願いながら生きさされるくだりから「こうした本多の心情が、読者に共有されるかどうかは微妙だが」とし、久松慶子が透をクリスマスの晩餐会に招き、「誰の目にも喪ったら惜しいと思わせるようなものが、何一つない」と言い放った点に関しては、

 裏を返せば、清顕や勲、ジン・ジャンには、それがあったということにある。読者が彼らに対してそういう思いを抱き得たかどうかは、この長い転生物語を読み通せるか否かの分かれ目であり、小説の技術的な評価点の一つとなろう。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 このように評価そのものを読者に委ねるような言い方をしながら、批判的である。ただし「それがあったということにある」は「それがあったということになる」とした方が解りやすいだろう。

 彼女にそう言わせた根拠は~にある

 という構文を前提に書こうとして撚れたのか。こういった点は、読者がこの長い『三島由紀夫論』を読み通せるか否かの分かれ目であり、評論の技術的な評価点の一つとなろう。
 ロジックの撚れよりも構文の撚れのほうが気がつきにくいけれども、それこそこれは編集者の質というものが問われるような事例であり、真面目に検証される必要がある点である。

 私は既に本多と慶子の間で輪廻転生の物語が易々と共有されてしまった不自然を指摘しているので『天人五衰』という作品が現実にはないことをさももっともらしく書くという態度を放棄した、というくらいに見ている。そしてこれが技術的なことなのか、作者の意図しているものなのか測りかねている。

 この点三島由紀夫が無自覚であったとは考えられないが、では自覚はあっても時間的に治すことが出来なかったのか、それとも三島由紀夫が衰えたのか、こういった問いが本来三島由紀夫の死を語る上では真面目に論じられるべきではあった。

 透の誇大妄想的なナルシシズムは、この"胸が空く"場面の伏線だが、本多が慶子に転生の事実を伝えた時と同様、透があまりに素直に、この一見、荒唐無稽な転生譚を鵜呑みにし、動揺する様は、やはり書き急ぎの感を否めない。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 この点平野啓一郎の見立ては「書き急ぎ」である。

 しかしこの点、寧ろ書き急いでいるのは平野啓一郎の方ではなかろうか。

 これは、好意的な誤解だが、彼女は結局、「私の見るところでは、あなたはきっと贋物」だという結論に達し、透はそのことで、自尊心を傷つけられ、彼女に殺意をさえ抱く。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 まず「透はそのことで、自尊心を傷つけられ」の後半部分はその通りで透は自尊心を傷つけられているように見える。しかしその自尊心のよりどころがたった今投げ与えられた転生譚にあったわけもなく、むしろ突然訳の分からない話を聞かされ、その訳の分からない話に沿って自分が間違えて選ばれたのだからあなたの生まれた日など何の意味もないと言われたから、言われている内容は無茶苦茶ながら、たかが人間如きにそんなことを云われてしまったという現実に対して透の自尊心は気づつけられてしまったのではないか。

 今まできいた荒唐無稽な話を信じるか信じないかはともかく、それと自分との関わりが何の意味もないと云われることは、透の存在理由に対する慶子のあらわな無視を暗示してゐた。彼女には他人を虫けら同然に扱う能力が具わっていた。それが慶子のいつにかわらぬ晴れやかさの本体だった。

(三島由紀夫『天人五衰』)

 ここに「今まできいた荒唐無稽な話を信じるか信じないかはともかく」とあるとおり「透があまりに素直に、この一見、荒唐無稽な転生譚を鵜呑みにし」ということはない。

 あるかないかで言えばない。

 正しいか正しくないかで言えば平野の表現は正しくない。

 間違っている。

 透は久松慶子の話を鵜呑みにせずに本多に清顕の日記を借り、何かを確認しようとする。

 自分で考え、自分で判断しようとしている。日頃の新潮社の編集者には一切見られない態度だ。

 それにしても三島由紀夫も書き急いでいることは確かなようだ。透から清顕の夢日記を貸してくれと頼まれた本多は驚きもしないし、慶子に何も確認しない。

 そして清顕の夢日記を読んで忽ち日記を焼き、自殺しようとした透の行動からは、

①自分が「贋物」であることで自尊心が崩壊した

 ような気配があることから、鵜呑みではないとしてもいささか信じやすすぎる、ということまでは確実に言えるように思えてしまう。確かにそういう筋の運びのように思えて強引に感じてしまう。

 しかし『盗賊』や『金閣寺』の観念の空中戦を思ってみれば、この読者がついてこれない感じというものはいささかノスタルジックに思えてくるものでもあるまいか。ああこれが三島だったなあと。

 そしてそもそも『仮面の告白』『金閣寺』はともかく『英霊の声』と『豊饒の海』は無理な話である。そして『英霊の声』を思い出してみると、時間はまだあったにもかかわらず、リアリティを創り出す簡単な手続きを省いていたことが確認できる。

三島由紀夫の『英霊の声』において明確に欠けているのは、彼らの声が真実であるという証拠、例えば彼ら以外には到底知りうるはずのない真実の暴露である。
 これは何も本当のことでなくとも構わないのだ。実際に現場にいたもの以外では知りえないという些細なこと、例えばまだ帝国ホテルではバイキングが始まっていなかったので朝飯はこんなだったとか、どこそこデパートの屋上にはこれこれのアドバルーンがゆらゆら揺れていたとか。三島由紀夫ほどのストーリーテラーであれば、まずこの帰神の会の儀式が本物である、あるいはあると思わせる証拠を見せつけることは容易ではなかったか。

 本当にそれは簡単なことなのだ。技術的な問題というレベルの話ですらない。やろうと思えばだれでもできること。別の第三者からの類似証言でもいいし、想わぬ証拠の出現でもいいし、ほとんど語られてこなかった透の両親の記憶など、やりようはいくらでもある。しかしそれを三島は『英霊の声』でも『豊饒の海』でもやらなかっのだ。

 ではリアリティを放棄したのは何故か。それはまさか三島由紀夫自身が贋物の芸術家であることの種明かし?

 まさかそれはなかろう。

 少なくとも『英霊の声』でリアリティを獲得しようとしなかったのは、月の海から日本を見ているという童話的な設定とリアリティが馴染まないと考えたからであろう。

 では『豊饒の海』の場合はどうか。

 まず『春の雪』の清顕について考えてみると、彼が誰の生まれ変わりであるかという点は曖昧なまま問われさえしていない。さしてロジックの利かない形で繰り返し得利寺のイメージが清顕に現れるが、年齢的な意味で考えても見れば、清顕が日露戦争で戦死した誰かの生まれ変わりであることはない。もし可能性があるとすれば日清戦争の戦死者ということにもなるが、清顕に日清戦争のイメージは浮かばない。だから得利寺ではロジックが利かないと書いたのだ。
 問題は清顕が「荒ぶる神だ」と言われる未来の夢を見てしまい、過去ではなく未来と繋がったようなイメージを日記として本多に託すことだ。

 そこから輪廻転生譚は始まった。

 荒唐無稽な転生譚は「もう一度滝の下で清顕と会うのではないか」という本多によって始められた。この荒唐無稽な転生譚は梨枝と慶子に共有された。そのうち梨枝との共有のされ方は常識的なものだった。久松慶子は不自然なほどあっさりと転生譚を受け容れた。

 何故か。

 その理由は透の凡庸さを徹底的にこき下ろすその口吻にこそ現れていまいか。久松慶子こそが自分は人とは違う特別な人間であるとかつては信じていた凡庸な若者だったのではあるまいか。だからこそ凡庸さというものが手に取るようにわかり、透が自分と同じ凡庸な人間なのだと見抜いたのではないのか。そうでなければ自分は特別な存在であると思い込む凡庸さというものにもう少し寛容になることが出来たのではないか。『暁の寺』における菱川に対する本多の厳しい拒絶も、三島自身の自己批判の表れであろう。ナルシシズムの結果として獲得された徹底した批評眼というものをどういうわけか久松慶子は持っている。それは勿論三島由紀夫から借りたものだ。

 で、透は?


ナルシシズムの根拠


 どういえばいいだろうか。私にはわかっているという態度こそ苛立たしいものはない。おそらくわかっていないのだ。わかっていればこんなことにはなっていない筈なのだ。

 本当にシンプルに、この本を読まないで私の書いていることを理解できていると思い込んでいる人がいたとしたら、それは完全な誤解だから。おそらくあなたは小説を読むための基礎的な素養に欠けている。

 こう言い換えてもいい。

 あなたが平野啓一郎よりも優れた読み手であるという根拠はどこから生まれてくるのか?

 云っていること分かりますか?

 日々平野啓一郎の間違いを指摘し続けられなければ、そんなおこがましいことは考えられない筈ですよ。

 それが出来ますか?

 そうでないならなぜ、

 この本を読もうとしないんですかね。

 それで町内会で立派な人間になれますか?

 そういうことですよ。

 よく考えてくださいね。平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読むということは、平野啓一郎の『三島由紀夫論』に圧倒されてしまうということではないわけですよ。平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読むということは、平野啓一郎の『三島由紀夫論』をまず理解するということですよ。

 角度をつけて読むときには「どう読むか」にしています。

 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読むということは、生半可なことではできませんよ。修業が必要です。

 何の根拠もなく自分は特別な存在で平野啓一郎の『三島由紀夫論』なんかスラスラ読めるわ、と思い込んでいたらただのナルシストですよ。

 あれとこれとを比べて、ここが違うとやらにゃあいかんのですよ。

 色々調べて、

 芥川の書いていることも鵜呑みにしてはいかんのですよ。

 それが平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読むための最低限の節度というものです。

 もう一度冷静に考えてくださいね。

 あなたは平野啓一郎よりも優れた読み手なんですか?

 それは根拠のないナルシシズムと違いますか?

 もう一度透の手記を読み直してみると、そこにはナルシシズムの根拠となりうるものが何一つ示されていないことが解る。
 では安永透という少年がどういう人間だったかと振り返ってみると

・自分があまりにも明晰であるために絹江という狂気の存在を必要としていた

 と、この前提そのものがナルシシズムに充ち満ちた独自解釋であったように思えてくる。透が絹江に感じていたのはこの世界を認めない者同士の同胞愛のようなものであった。絹江は狂気でこの世界を裏返しにして、透は肥大化した自尊心でこの世界を歪めていた。

 傍から見れば透は醜い狂人である絹江以外には付き合いのない孤独な少年であり、気の毒なことに平民で両親もいない。

 中卒の労働者。知能指数140。

 そんな凡庸な少年はナルシシズムにでも守られないと生きていけないものかもしれない。

 だから透は決して自分を拒まないもの、決して自分がほしいと望み、拒まれることのない存在としての絹江とまじめに向き合わねばならなかったのではないか。

 火掻き棒による本多に対する支配にしても、そこには拒まれることに対する恐怖の裏返しがあったのではないか。そしてこうも考える。ウィトゲンシュタインでもあるまいに、何故透は火掻き棒が人を殴るのに適した道具だと気がついたのだろうか。

 例外はあろうがたいていの人に殴られたことのない人間は人の殴り方も知らないものがある。二十六章、571ページで突然現れたかに見える火掻き棒は、勿論それそのものとしてではなく、例えば人を殴りつけることもできる適当な長さの棒状のものとして、透の遠い記憶の中に潜んでいたものではなかったか。それは映画『2001年宇宙への旅』で猿が手にした棒切れのようなものでもよい。

 手ではなく道具で殴られる。そういう経験が火掻き棒のエピソードには秘められていないだろうか。

 決して自分を拒まぬ、自分が寝た女たちをメイドとして雇い、時にはタバコの火を押し付けるなどとして徹底的にしつける様子にこそ、透の、現実的にこの世から拒絶されることに対する恐怖が見えてこないだろうか。

 本多と透の関係は特別養子縁組ではなく、普通養子縁組であろう。特別養子縁組の場合、本多に配偶者が必要になる。普通養子縁組の場合、その関係は解消し得る。そして立証できるかどうかは別として、透の本多に対する虐待行為は、養子縁組解消の十分な理由になりうる。もしも透が死なず、生き続けていたとしたら本多が養子縁組を解消しようとする可能性も十分にあるのだ。

 もう誰からも拒まれたくない。

 透の考えたのはそのことではなかろうか。

 仮に慶子から聞かされた転生譚が嘘であろうが本当であろうが、そのストーリーを信じて本多が透を養子にしたのであろうという事実は清顕の日記を読むことによって理解できた。
 そして透は自分が夢を見たことがない人間であることで、転生譚のストーリーから拒まれたことが理解できた。それはあくまでも荒唐無稽な話ではあるものの、その荒唐無稽な話を根拠として二十歳の透の現実世界は成り立ってしまっているのだ。荒唐無稽な転生譚に拒まれること、それは同時にこの現実世界から拒まれることをも意味する。

 もう拒まれたくない。そのために三級無線通信士の資格を取り、誰にも拒まれない仕事を選んだのだ。頭を下げて物を売り歩くのが平気なら、通信士になどならないだろう。

 つまり

①自分が「贋物」であることで自尊心が崩壊した

 から自殺しようとしたのではなく

②ナルシシズムの言葉遊びではなく現実に拒まれた

 から自殺しようとしたとは言えないだろうか。

 仮にそう考えていくとまさに「今まできいた荒唐無稽な話を信じるか信じないかはともかく」という状態であってさえ、自殺しようとすることはできる。完全に人間を理解したなどと強がっていた透の自尊心が兎にも角にも二人の老人によって辱められてしまったことは確かである。

 透の自殺未遂はかくももろい精神が猛烈なナルシシズムによって辛うじて保たれていたことの証明なのではないか。

[余談]

 それにしても鬼頭槙子は落ちをつけないで消えてしまった感じは否めない。このままだとまだ彼女は女神だ。

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