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こんなに違う 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む76

擾乱それは入り乱れて騒ぐこと。 また、秩序をかき乱すこと。


 ありていに言えば、間違っている。

 彼らは、左翼のデモに出会し、警察予備隊の出動によって擾乱が発生すると、二人して手を取り、恐怖に駆られ、必死にその場から逃げる。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 平野啓一郎の説明では警察予備隊が擾乱の原因にされてしまっている。

 騒ぎが起こっているので治安維持のために警察予備隊がが出動したというのに、話があべこべになっている。

 擾乱は「群衆のインタナショナルの合唱」や「破防法粉砕」の幟、「アメ公かへれ」と大書した布と渋谷駅前広場に群がる人々によって既に引き起こされていたものである。

 なんでそこ逆になるかな?

 そしてここで気になるのは「左翼のデモ」という平野の総括である。非常にすっきりした棘のない表現ではあるものの、血のメーデーからの流れで言えば、この群衆を「左翼」と括るのはいささか単純すぎないだろうか。

 例えばここには無思想の人、朝鮮人や日雇い労働者たちも混ざっていた筈だし、「アメ公」「ポリ公」という言葉を発した一人が群衆の代表でもありえないわけで、これは組織化された反米団体でもなく、反体制組織でもなかったはずだ。

 代々木派というのが現れるのは1960年代で、現在千駄ヶ谷から原宿渋谷にかけての左翼デモというものには日本共産党が絡んでいるケースがかなり多いと思う。

 ただまあ後に言われるようにこの群衆の主成分は「共産党員と朝鮮人」と見做されている。(299ページに出てくる。)朝鮮人を「左翼」に括ることは難しい。共産党員とは眼鏡デブのことではなく当時は極左暴力主義者と見做されていた人たちのことである。つまりこの当時の渋谷の群衆をただ「左翼」と呼んでしまうのは少し時代の空気を無視している感じがある。

 しかも、ここで私が指摘しなければならぬことは、最近かかる傾向が現われて来ることは、いわば共産党というか、極左暴力主義の意識的行動もなきにしもあらずと思うのでありますが、これに対して、吉田さんが力をもつて対抗するところに、ここに騒擾は騒擾を拡大して、騒擾の拡大再生産が行われておるのが、今の状態だと言つても過言ではないのであります。

第13回国会 衆議院 本会議 第61号 昭和27年6月26日




 この平野の「左翼」という表現は、言ってみれば血のメーデーが日米開戦時に二重橋前に集まった人々のあべこべと見做した時、二重橋前に集まった人が渡された日の丸を振っているからといって彼らを一括りに「右翼」と言ってしまうようなものだ。後者は保守的な在り来たりの日本人であり、前者は朝鮮人と極左暴力主義者なのだ。




天安門事件じゃあるまいし



 
 また「恐怖」は警察予備隊が現れる前からあった。261ページからあった。

 今西は恐怖と不安のために、脚がしらずしらずそちらへ惹かれてゆくのを感じた。 

(三島由紀夫『暁の寺』)

 恐怖はむしろ群衆に、駅前広場に今西たちを引き寄せていたのである。つまり平野の恐怖の捉え方はあべこべなのである。

 二人が逃げ出す際の心理状態は寧ろ書かれていない。つまり「恐怖に駆られ、必死に」は平野の想像である。それは巻き込まれては困るという反射的な動きであろうし、

 終末の高い香しい匂ひが立つた。世界は寝不足の目のやうに真赤になりつつあつた。今西は桑の葉を争つて喰べる蚕たちの、蚕室の異様なざわめきを聴く心地がした。

(三島由紀夫『暁の寺』)

 むしろこうした表現からは最初の「恐怖と不安」が適度な運動によりほぐれて、「冷静な時間を示して」いるようにさえ思える。

 平野はこれを、

 今西はその時、「自分も駆けることができた」ということに驚くが、これは当然、死からの逃避であり、決して死に向かって「駆けた」経験がない本多の独白と、呼応する。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 とかなりの大事にしてしまうが「死からの逃避」と言ってしまうとまるで警察予備隊が今西を殺してしまう殺戮集団かのような理屈になってしまう。血のメーデーでさえ公式には死者一名である。

 ちょっと思い出してもらいたいのは渋谷のハロウィンが規制されるきっかけとなったトラックの上でスタンプしていた動画、あれはその前があり、オーナーがむしろ煽って若者を車に乗せていたらしい。そういうのりがあったのだ。血のメーデーはいざ知らず、今西と椿原が渋谷の群衆に見たものは、ギロチン幻想に連なる『風流夢譚』的なもので、よく読むとどこかから火炎瓶が出てくるとは言え群衆はまだ武装していない。

 そこで私は立っている間にまわりで騒いでいる話を聞いていると、都内に暴動が起こっているのではなく、革命の様なことが始まっているらしいのだ。
「革命ですか、左慾(サヨク)の人だちの?」
 と、隣りの人に聞くと、
「革命じゃないよ、政府を倒して、もっとよい日本を作らなきゃダメだよ」
 と言うのである。日本という言葉が私は嫌いで、一寸、癪にさわったので、
「いやだよ、ニホンなんて国は」
 と言った。
「まあキミ、そう怒るなよ、まあ、仮りに、そう呼ぶだけだよ」
 と言って、その人が私の肩をポンと叩いた。この時私は、並んでいる人達はみんな労働者の様な人達ばかりなのに気がついた。そんなことを言っているうちに向こうの方からバスが来て止まった。そうすると並んでいる人達がわーっとバスへ乗り込んで、運転台から運転手をひきずり降ろすと、別の人が運転してバスはうごきだした。私は見ているばかりで相変らず停留所の先頭に立ってバスを待っているのである。
「どこへ行ったんですか? あのバスは?」
 と隣りの人に聞くと、
「警視庁と、いま射ち合いをやっているので応援に行ったんだよ」
 と教えてくれた。
「えっ、警視庁とやってるんですか? そいつはまずいですね」
 と私が注意すると、
「いや、警察も、下ッパ巡査はみんな我々と行動を同じにしているが、刑事は反抗していて、いまピストルの射ち合いをやっているんだ」
 と言うのだ。
「わー、ピストルがあるんですか? こっちにも?」
 ときくと、
「あヽ、あヽ、ピストルでも機関銃でもみんなあるよ」
 と言うのだ。
「そいつは安心ですねえ。いつまでもスクラムをくんだり、バリケードなんかはっかりでツマラナイけど、どこからピストルや機関銃を?」
 ときくと、
「各国で応援してくれたんだよ。悪魔の日本をやっつけるために、こないだの韓国のデモの人達が船でとどけてくれたり、アメリカでも機関銃を50丁(チョウ)ばかり、ソ連でも20丁(チョウ)ばかり」
 と言うのだ。
「話せるねえ、各国は」
 と私は言って横を見ると、ヌードダンサーの春風そよ子さんも並んでいた。私が変だと思うのは、彼女はマニキュアをしながらバスを待っているのだが、指をうごかさないでヤスリの方をうごかしているのである。彼女がこんな磨き方をする筈がないし、私は肥もかけないで黙って見ているだけなのは、どうしたことだろう。それが変だとも思わないで、私はさっきのヒトに、
「それだけ機関銃があれば大丈夫ですねえ」
 と言った。その時、またバスが来て私の前に止まった。みんなわーっと騒いでバスに乗り込んで運転手をひきずりおろしてバスは動き出したが、私は相変わらず停留所の前に立っているのだった。
「どこへ行ったんですか? あのバスは?」
 と隣りのヒトに聞くと、
「あのバスは自衛隊を迎いに行ったんだ」
 と言うので驚いた。
「そいつはまずいですねえ、自衛隊なんか来ては」
 と言うと、
「自衛隊もみんな俺達と行動を同じにしていて、反抗するのは幹部だけで、下ッパはみんな農家の2,3男坊ばかりだから、みんな献身的に努力しているのだ」

(『風流夢譚』/深沢七郎/昭和三十五年)

 当時「群衆のインタナショナルの合唱」のような盛り上がりというものは確かにあったようだ。しかしそこにはまだお祭り騒ぎの物珍しさのようなものがあり、朝鮮人や極左暴力主義者たちに、春風そよ子さんや「これから皇居へ行って、ミッチーが殺(や)られるのをグラビアに撮るのよ」と喜ぶ女性記者などの色んなものが混ざっていた筈だ。

 池袋の純粋なコスプレイヤーのためのハロウィンと異なり、渋谷のハロウィンは痴漢やスリや喧嘩自慢の集まる雑然としたものである。
 
 その血のメーデーとも違う渋谷の空気感を三島は黒いブラジャーで象徴したのであろう。

 どうもここは平野が雰囲気を読み取り間違えてはいまいか。


同時ではないなあ


 今西は死を怖れつつ、同時に、この「日常性の地獄」が身を蝕んでゆくことを畏れ、世界崩壊を夢見、左右どちらの革命でも構わないので、その最中で虐殺され、「自分の疑いようのない凡庸さがばれてしまう」ことのないようにと期待する。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 長い細かい話をぎゅっと縮めたから「同時」になってしまったのではない。この「同時」は

①擾乱の原因の取り違え
②恐怖の意味の取り違え

 ……というところから無理やり誘導されてきて現れたもので、まあ自分にミスリードされた誤読である。

 駅前広場を一歩遠ざかれば、焼跡にあわてて建てた小店舗の居並ぶ、道玄坂下から松濤へ向かふあたりの道筋は、なんら常と変わらなかつた。こんな早い時刻から酔漢がうろつき、ネオンが金魚の群れのやうに頭上にあつた。
「急がなければ、地獄が舞ひ戻つてくる。今すぐに、すべてが破滅へ向つて急がなければ」
 と今西は思つた。危険を逃れるや否や、もう心配のなくなつた危険が、彼の頬を紅潮させていた。

(三島由紀夫『暁の寺』)

 この時点で「今西は死を怖れつつ」はない。そして次が面白い。

この「日常性の地獄」が身を蝕んでゆくことを畏れ、

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 と、平野は書いている。

 今西は少しも早く破滅が身にふりかかつて来なければ、身を蝕む日常性の地獄が勢ひを得て、一日も早く破滅がやつて来なければ、一日多く、自分は或る幻想の餌食になるのだ、といふオブセッションを抱いてゐた。

(三島由紀夫『暁の寺』)

 今西の強迫観念は「幻想の癌に喰ひ殺されること」である。強迫観念なのでいささか具体性を欠く。しかしここは「畏れ」ではなく「不安」であろう。

✖ この「日常性の地獄」が身を蝕んでゆくことを畏れ、

〇 幻想の癌に喰ひ殺されるという強迫観念に陥ることを不安に思い、


その最中で虐殺され、「自分の疑いようのない凡庸さがばれてしまう」ことのないようにと期待する。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 ここもおかしい。今西は一応「ぞつと」しているのだ。それはギロチンの俗悪な意匠に対しての「ぞつと」であったとして、「ギロチンに運んでくれたらどんなによかろう」が期待だとして、その期待はたちまち不安に転じている。群衆が今西を憎まず、「記憶されるもの」になってしまう不安に駆られているのだ。「自分の疑いようのない凡庸さがばれてしまう」ことは恐怖である。しかし「記憶されるもの」になってしまうことにも「ぞつと」するのだ。この感覚は明確に危険を逃れた後にあり、「死を怖れつつ、同時に、」あらわれたものではない。


快感はまだない


 椿原夫人は、槙子に内緒のこの忍び会いに「罪のおののきと懲罰の期待」を覚え、今西は、自分に向けられた槙子のあの「嫌悪の驟雨」の眼差を想像して、マゾヒステイックな快感を覚える。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

✖ 期待を覚え

〇 期待に酔い

✖ 想像して、マゾヒステイックな快感を覚える

〇 心に念じてゐた

 むしろ酔っていたので快感があるとすれば椿原夫人の方である。今西には快感はない。

 椿原夫人には例の「あはれを体現してごらんなさい」の妄想がある分、それだけでマゾヒステイックな快感があったと考えられ、一方今西は槙子のあの「嫌悪の驟雨」をわが身に浴びながら、事を行いたいと心に念じていたので、まだ「嫌悪の驟雨」がない状態ということになり、「想像して、マゾヒステイックな快感を覚える」という状態には至っていない。

 だから今西はこの後隣の寝室の、こちらの部屋の灯が及ばぬ辺りに槙子の存在を求めてわざわざ覗きに立つ。

 細かいことのようだがこうした一つ一つの感情の変化や動作というものをしっかりと理解していかないと作品を読んだことにはならない。それはおかずとご飯を一口ずつしっかりと口に運ばないとお弁当を食べたことにならないのと同じことである。

裸ではない


 その内容は、ジン・ジャンが、「裸で孔雀に乗って飛翔」し、つまりは、孔雀明王に化身して、空から「小水」を「驟雨」のように振りまき、それを浴びることに、本多が「疑いようもない幸福感」を覚える、という淫猥なものである。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

✖ 「裸で孔雀に乗って飛翔」

〇 金色の衣装の月光姫が金色の孔雀の翼に乗つてあらはれた。

 金色の衣装と裸とは違う。

 同じだろうか?

 同じだと思う人?

 新潮社の人はどう思っているの?

 國分功一郎は?

 養老孟子は?

 note民の皆さんはどうなの?

 新着記事に一つだけスキをつけていくbotの皆さんにとって「金色の衣装」は「裸」のことなの?

 いやいや、お前が勝手にそうやって違う風に引用して因縁つけているだけだろ馬鹿野郎、って皆思っているのかな?

 これが平野啓一郎の『三島由紀夫論』で、

 これが決定版の『暁の寺』。

 つまり?

 違うよね。

 何がダメかというと裸だとお乳が描写されないと駄目なわけよ。

 村上春樹さんの『騎士団長殺し』で主人公の肖像画家が秋山まりえのセーターの胸のふくらみをじっと見るじゃない。これはいやらしいとか勃起不全という話ではなくて、なにがしかのリアルなわけですよ。

 この『暁の寺』において乳房というのはちらちらと出てくるライトモチーフで、裸になれば必ず見られなければならないものなわけですよ。だからこその金色の衣装なのですよ。

 そこを取り違えるかね?

 ここで平野啓一郎は本多を若い娘のおしっこを浴びて喜ぶおっさんのように規定しているが、よく読むと決してそんなことはなかった。本多は月光姫が厠にもいかずに小水をふらしたことを訝り、お行儀をたしなめてやらなくてはならぬ、と思ったのであり、おしっこを浴びた瞬間「あはははは、あは、あははははは……」と歓喜したわけではない。

 疑いようのない幸福感はおしっこによって与えられたのではない。

 ふり仰ぐ空に、黄金の孔雀にまたがつて翔る孔雀明王の化身の姿を、本多は親和と共感の全き融和の裡にとらへてゐた。ジン・ジャンは彼のものだつた。

(三島由紀夫『暁の寺』)

 本多は異例なばかりではなく滑稽な恋をしていたのである。この恋の本質に気がついてやれないのは本多をひたすら変態にしてしまいたいという平野啓一郎の願望ゆえではないかという気がする。少なくとも月光姫を裸にしたのは本多ではなく平野啓一郎なので、この時点では本多の方にまだ分がある。


[余談]

 つくづく思うのは二十三年間蓄積されたものがあって、それが正しい読みを妨害しているなということ。仮定が前提になり、思い込みが連鎖していく。

 まあそれだけ三島由紀夫がややこしい小説を書いている、というわけなんだけど。

 でも本当にどうするのかなあ。流石にスタッフもそろそろ不味いとは気がついているんじゃないのかな。これ書き直しも大変だよ。

 それと書き直したとしてどういう形で販売するかだよね。図書館にしても個人にしてももう一回三千八百円出せというのかよ、とは思うのではなかろうか。これが電子書籍なら間違いなくデータの差し替えだよね。

 これ委員会作ってやるしかないんじゃないかな。

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