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夏目漱石『坑夫』の時間

夏目漱石の時間

 夏目漱石は晩年、時間は本来分割できないはずのものを分節化することによって生じたものだとするようなアンリ・ベルクソンの思想にふれ、大いに関心を持つていたことはよく知られています。これは元々漱石が時間というものをいわゆるニュートン時間のようなものとして捉えていなかったからで、その作品はそもそも『倫敦塔』あたりからA系列とB系列の出来事を比較し、時間の非実在性を論じたジョン・マクタガートの知見があったかのような(実際には無かった!)奇妙なものでした。

 突き放した言い方をしてしまうと頭がおかしい人が書いていてついていけない感じがします。別の言い方をすると幻想的ですが、経営会議の真っただ中で幻想を見ている人は同僚から頭がおかしいと言われてしまいますから、まあ、頭がおかしいように見えます。

 しかし「存在」と「時間」というものについて考え始めると、どうしてもこれは「不思議」なものということになると思います。この不思議なものを漱石は詩的にではなく、哲学的に追求していきます。 

    〇物、我(dual)
通俗  〇時間、空間、数
    〇因果律


    〇物我(oneness)━succession of consciousness
真実  〇Life

断片四十二

 まず度肝を抜かれるのは「数」を通俗においているところです。近代の学問はオーギュスト・コントの影響下にあるなしに関わらず、比喩的に言えば数学を背骨にして立ち上がってきたようなところがあるように思うのですが、漱石は数学を本来ありもしないものを人間が苦労して作り出したものとして通俗において、この観念から『文芸の哲学的基礎』までを独自に組み立てていったわけです。

 その上で実際の完成品としての初期作品はやはり

 このような単純な時空を描きません。今回はその構造ではなく手法を『坑夫』でみていきましょう。

『坑夫』の時間

 夏目漱石『坑夫』の語りはとても奇妙な形式です。冒頭では今まさに見えている景色を主人公である「自分」が語っているように読めますが、突然現在の自分というものが現れて、大きな形式としては一応「回想」の形で物語が進行しているのだなと気づかされます。

 さっきから松原を通ってるんだが、松原と云うものは絵で見たよりもよっぽど長いもんだ。いつまで行っても松ばかり生えていていっこう要領を得ない。

(夏目漱石『坑夫』)

 ここだけ読むと一切回想という感じはしないわけです。しないように書いています。大体過去に見た景色はそんなに鮮明に記憶に乗っているわけもないのに、今見ているていで書かれています。

 それが、

 不思議な事にこれほど神妙にあてられたものが、今はけろりとして、一切神妙気を出さないのみか、人からは横着者のように思われている。

(夏目漱石『坑夫』)

 ここで不意に現れる「今は」という現在の自分によって、書かれている事柄はあくまでも過ぎ去った過去の出来事、おそらくは数年前以上の昔の出来事だと判明します。それでは何故カギカッコの「回想」なのかというと、これが全然回想らしくなく、敢えて言うならば『趣味の遺伝』において「余」が「高さん」の戦場に臨場するような、そんな際どい書き方がされているかのようだからです。まるで過去の自分の方が実体でまさに身体性を維持していて、現在の自分というものが未来の自分であるかのような取扱いなのです。

 その説明は概ねこの記事で尽きています。

 現在の自分というものが繰り返し小出しにされ、何か二つの意識が一緒に旅をしているような独特の語り口で、より遠い過去からより近い過去へと物語の時間は進行していきます。出来事の前後というものは見られず、現在に意識が戻ってその場で誰かと会話するというようなことがないので、現在への意識のふり向けが極端に弱く、今立っている現在位置があり、そこから過去を思い出しているという明確な関係性が見えてこないのです。

 あるいはこれは岩野泡鳴の云うところの現在法、と捉えた方がよいのかもしれません。

現在法(Prosopopaeia)とは、過去または未來の事實を現在働詞を以つて發表し、まざまざと目前に出來て居ることであるかの樣に見せることだ。幻像(Vision)ともいふ。修辭小說家では、夏目漱石がよく之を用ゐる。

(『新体詩の作法』岩野泡鳴 (美衛) 著修文館 1907年)

 つまり『坑夫』は十六世紀の首切り役の会話を聞く『倫敦塔』のような、単純時間そのものに囚われない幻像によって語られた物語だと言えなくもないのです。

 

 ニュートン時間というのは「きめごと」ですから、正解も何もないわけですよね。このきめごとがないと時計屋は時計を売れないわけです。しかしどういうわけか夏目漱石は単純な過去から刻々と時間を進行させていくことに我慢がならないようです。そのことがジョン・マクタガートの時間に関する考察を眺めていくと妙に腑に落ちる感じがあります。

 感じというと曖昧に聞こえますが、ジョン・マクタガートの時間に関する考察が『坑夫』の補助理論になっているというわけではなく、時間というものを出来事の順序や変化というものに置き換えて考察しながら、ジョン・マクタガートが示したものは「ああでもないこうでもない結局ダメという混乱」ですから、正解というものはまだないわけです。

 漱石も正解は持っていません。ただ時間も本来ありもしないものを人間が苦労して作り出したものと考えているという点で、ジョン・マクタガートの時間に関する考察(混乱)と漱石の初期作品は親和性がある感じというものがあるというお話でした。

 過去、現在、未来というような「構造」として『坑夫』の時間を説明しようとするとどうにも違和感が生じることから、今回は現在法という手法として見てきました。

 ポイントは、

・語り手(自分)の身体性が刻々と進行する過去の方に比重をかけられていて、現在の自分はうすぼんやりと飽くまで未来の仄めかしのように描かれている
・今どうなっているのかということそのものは常に重要なことではない


 ……ということでしょうか。

 特に語り手はそこそこ金持ちになっているようですが、「坑夫(見習い)」の体験がその成功をもたらしたわけではなさそうなので、『こころ』の「私」が先生を全肯定する現在のような重さを『坑夫』の語り手の現在は(物語として)持っていないわけです。

 こうした物語の常として「これから昔の話をするよ」「昔こんなことがあったんだよ」と頭とお尻に語り手の現在を持ってくれば解りやすいものを、どうも漱石はわざと分かりにくく書いています。二つの意識が一緒に旅をしているという感覚は案外意識してのことではないかと思います。


[余談]

 三四郎のキャラコのシャツとズボン下と兵児帯姿というのもマジックリアリズムだったんだろうか?


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