岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する150 夏目漱石『道草』をどう読むか26 半年なんてあっという間だ
馬鹿な真似をするな
この砕かれた硝子戸が『硝子戸の中』の硝子戸で、或る日漱石が下女にナイフを渡して「これで小刀細工をなさいと、奥さんにおっしゃい」とかなんとか言うという真逆の事件があったそうだ、とでも思わなければ、何とも生々しく息苦しいエピソードなのかもしれない。
実際健三はこの馬鹿な真似に脅かされてしまう。この馬鹿な真似が何なのかよく分からないからだ。「これで小刀細工をなさいと、奥さんにおっしゃい」という漱石もよく分からないが、この細君の考えも解らない。読者は書かれている文字しか読めないので、この細君の腹の中に話者が立ち入ってくれなくては細君の考えが解らない。これまで何度かそういう場面もあった筈だが、ここは健三の困惑を引き出すために細君を外側からしか描かない。
死を衒う人
細君は死を衒う人と思われるほど静かに寝る女なので呼吸までが確かめられたのであろう。
ここには「馬鹿な真似」の解らなさがある。そしてどうしても他人でしかない妻に対する不信の眼差しがある。一旦健三の方に可笑しなふるまいをさせておいて、今度は細君の方を異常にしてみる。こうして際どいバランスの中でぎりぎり成立する夫婦というものを強調する。
こうした場面を読み直すとやはり坂口安吾が言うところの「夏目漱石という人は、彼のあらゆる知と理を傾けて、こういう家庭の陰鬱さを合理化しようと不思議な努力をした人」という切り取りがなかなか鋭い指摘であると感心する。
島田は前の妻を離縁して再婚した。比田は喘息持ちの妻をかまわず女を囲っている。長太郎はなんやかやで三人目の妻を迎えた。健三は妻に孤独さえ味あわせわせながら「離婚」という選択肢を思い浮かべさえしない。それぞれにそれぞれの家庭のあり様があるけれど、ここで健三は「死を衒う人」とまで突き放して妻を捉えながら、確かに安吾の言うところの不思議な努力をしている。
津田に比べれば随分一途である。その点は家庭にはこだわりながら浮気をする『歯車』の「僕」とも違う。
彼が飯を食う時給仕をしながら色々な話をした
里に帰った細君と子供たちのお蔭で健三は心の平静を取り戻す。細君とは話さないのに下女とは色々な話をする。これで須永市蔵と「女らしい」「一筆がきの朝貌」「尊い感じ」と見えた作みたいな話になると面白いのだが、ここで下女は名前さえ与えられない。
安い植木鉢を買ってくる女としか見られない。「彼のために二、三の盆栽を宅から持って来てくれた」というのは女房が里に帰ったタイミングで何かしかけようというよりは、慰め、気晴らしのための親切心であったのだろう。その鉢を「どこの縁日へ行っても、二、三十銭出せば、鉢ごと買える安価な代物」と言ってしまう健三はやはり偏屈である。
下駄でも買ったら好いだろう
すり減った下駄。
宗助は穴の開いた靴を履いていた。生活水準は履物に出るということか。しかしこれは実家でも誰かが気がついたかもしれないことであり、そこでは指摘されなかったことだ。
つまり『三四郎』を読んだ人が誰も「あれ、美禰子って本当は裕福じゃなかったんじゃないのか?」と下駄のことに気が付かないように、漱石が『三四郎』のそれからですよとわざわざ断って『それから』を書きはじめると、いきなり冒頭で俎下駄が空中にぶら下がり、「ほれ、ほれ、下駄なんだよ、下駄を見なきゃいけないよ」と合図をしているのに、誰も美禰子の下駄なんて見やしない。
健三の細君の下駄も、健三しか見ていない。三四郎はまた初心なので美禰子の下駄の「意味」に気が付かない。しかし健三は細君の下駄に気が付く。
彼女の態度は里へ行く前と毫も違っていなかった
そう言われてみるとそもそも根本の問題は何だったのかと疑問になる。頭から読み返してみてやはりそこは判然とはしない。「貴夫故のようになって下さらなくって」と細君が言うからには、細君からしてみれば健三が前とは変わったのであり、それが不仲の原因なのだ。
しかし健三が浮気をしているわけではなく、何か大きな事件があったわけでもない。健三が妻に対する思いやりを表に出さないのが悪いのであって、いってみればそれくらいのことなのである。子供を産んだ女がしぶとくなるのは当然のこと、女が夫を離れた自己を持つのは時代である。健三の不満はやはり偏屈でありわがままだ。
……そんなことはどうでもいい。
細君が里に帰っていた時期は、
猛暑?
つまり、
・九月某日島田と会う
・その六日後もう一度島田と会う
・次の日曜姉に会う
・一週間後の日曜日に風邪をひく
・ニ三日寝込む(この間、吉田虎吉が訪問)
・吉田虎吉と面会
・何日か後の午後(一週間後の日曜日? 十月初旬?)、吉田虎吉と島田がやってくる
・雨が降る日が数日続く
・晴れた日曜日、細君が子供を連れて里と長太郎を訪問する
・月は早くも末になった(十月末?)細君が会計簿を持ってくる
・健三は仕事を増やして給与が出る(十一月末?)
・ニ三日経ってから細君に反物を見せられる
・ある日留守中に島田が来たと言われる
・比田に葉書で呼び出され、葉書で返事を出して、比田の家に行く。
・青年と散歩する(長太郎が来るが留守)二十九章、細君は妊娠している。
・ニ三日後長太郎が袴を返しに来る
・事件のない日がまた少し続いた
ここまでが三十八章。やはり季節を表わすような表現がこれと言って見当たらないばかりか、むしろ青年と散歩しているところなどは少しも寒そうな様子がなく、むしろ春なのかとさえ思う。しかし計算上はもう十二月の中旬以降でなくてはおかしい。ここからしばらく健三の奇妙な「過去」の話になり、現在進行している時間の感覚がなくなる。
・それから五、六日ほどして島田がまたやってきた
この「それ」が仮に十二月十五日であれば、もう十二月二十日ごろという計算になる。
・三日ほどしてまた島田がやってくる
問題はその後だ。
この「例よりは忙がしい頭を抱えている」が年末の忙しさを仄めかしてはいまいか? この来訪が前回の三日後だとして二十六七日の計算である。つまり、
五十二章で初めて具体化する島田の金の無心、これは年末のつけ払いの勘定の為の無心だったのではないのか。と思えば翌日も健三は普通に勤務している。
そもそも健三が遠い所から帰ってきて駒込に所帯を持ったのが九月初旬で、そこで一発で仕留めたとして十二月中旬に妊娠が判明するのはぎりぎり早い。従って「そうして今は既に三番目の子を胎内に宿していた」というのは回顧の形式による話者の説明であると考えるべきかもしれない。
しかしそこから急に夏になっている。全く破綻はしていないが、やはり年越しと春が飛ばされている感じが否めない。
この四行ほどの間に半年以上が経過したのだとしたら、人生なんて本当にあっという間だ。
[余談]
混んでる。
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