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谷崎潤一郎の『卍』をどう読むか⑪ ぜんざいの御餅は焼餅?

そろそろなんぞないと

 そないして、だんだん私は抜き差しならん深みい陥って行きましてんけど、「こいではいかん」思たところで、もうそうなったらどないすることも出来しません。私は自分が光子さんに利用しられてることも、「姉ちゃん姉ちゃん」いわれながらその実馬鹿にしられてることも、感づいてましてん。――はあ、そら、いつや光子さんがいうてなさったのんに、「異性の人に崇拝しられるより同性の人に崇拝しられる時が、自分は一番誇り感じる。何でやいうたら、男の人が女の姿見て綺麗思うのん当り前や、女で女を迷わすこと出来る思うと、自分がそないまで綺麗のんかいなあいう気イして、嬉してたまらん」いうのんで、たしかにそういう虚栄心から、夫に対する私の愛を自分の方い奪いなさることに興味持ってなさったのんでしょうが、それにしたかって、光子さん自身の心は綿貫の方へ吸い取られてたことは、よう分ってましてん。けどもう私は、どんな事あっても二度と別れるいうこと出来でけへん気持になってましたよって、分ってながら分らん風して、お腹なかの中ではなんぼ焼餅焼いてたかて、「綿貫」の「わ」の字も口い出さんと、そ知らん顔してましたのんで、そんな工合に弱点見抜かれてしもたら、姉ちゃんいうても私の方が妹みたいに機嫌取るようになってしもて、或る日いつもの家で会うてますと、「姉ちゃん、あんた一ぺん綿貫に会うてくれる気イないか」いいなさるのんです。

(谷崎潤一郎『卍』)

 阿保らしい展開でよりを戻した徳光光子と柿内園子の関係は、次第に深まる様で互いの心を見透かし始める。ただ好き好きと夢中になるのではなく、見透かして芝居をする。どこか冷めているようで、やはり囚われている。なかなか複雑な心理だ。

 何かここで本来は破綻している感じがする。ただ好き好きと夢中になるのではなく、見透かして芝居をする……そんな気持ちになる事があるだろうかと考えてみる。例えば三島由紀夫の『金閣寺』に現れる観念の空中戦に比べれば、これは水面下で蹴りあう水球のようなものか。正直面倒くさい。全てカッコつきで、いわゆる「女性脳が」駆使されいわゆる「女々しさ」が突き詰められているように感じる。いわゆる「男性には解らない」「女性にだけ分かる」感覚なのだろう。

 無論ここには個体差があり、完全な男性、完全な女性など存在せず、性別はグラデーションだとして、ここでは「女らしさ」が悪い意味で突き詰められている感じがある。谷崎の女性人気はこういうところにも要因があるのだろう。

 この関係の中に綿貫と云う男が本格的に割り込んで来ようとしている。

 徳光光子の意図が何処にあるのか、まだ明確ではない。ただただ怪しい。「姉ちゃん、あんた一ぺん綿貫に会うてくれる気イないか」という徳光光子の言葉の背後には綿貫の意図があるはずだ。綿貫と柿内園子が会って何をどうするのかと考えた時、そこにはいわゆる「男脳」ではシンプルな答えしかないように思う。

「あのなあ姉ちゃん、ほんまいうたら、この人焼餅焼いてんねんし、――」いやはりますねん。嘘です、そんな事あれしません、そら誤解や。」「嘘やあれへん、そんならさっきの事いおか?」「さっきどういうた?」「僕は男に生れたのんが口惜しい、姉ちゃんみたいな女に生れたらよかったいうたやないか。」「そらいうた、――そやけどそら焼餅やあれへん。」そないいい合いしてるのんが、私にお世辞使うためにちゃんと二人で相談しといていうてるのんか分れしませんし、相手になるだけ阿呆くさい思て黙ってますと、「まあ、まあ、姉ちゃんの前でそないに僕に恥掻かかさんでもえやないか。」「そんならもっと機嫌ようしたらどやねん?」いうて、ずるずるべったりに焼餅喧嘩止めてしもて、そいから帰りしなに三人で鶴屋食堂い行ったり、松竹見たりしましたけど、そいでも三人とも心からシックリとはしませなんだ。 

(谷崎潤一郎『卍』)

 それはしっくりしないだろう。女二人と男一人でシックリすることはかなり難しい。谷崎はここで少し綿貫の魂胆を読者に探らせようとしている。それにしてもそろそろ何かあってもいいんじゃないのかと焦らしている。このじらしも、初期作品の潔さと比べれば、やや間延びした感じがしてしまうも、むしろこの焦らしこそ味わいなのだと感じる人もいるだろうか。
 
 何も芥川、漱石と比べる必要はないが、ここまで書き文字の凝った表現や、抽象的な表現はない。まさに口語文だからだ。よくよく思い出してみれば、庄司薫に先んじて『あくび』でティーンエイジスカースを駆使した谷崎は、『卍』では大阪弁の女性のモノローグという文体を試みたのではなく、己の憑依、いわゆる「女性脳」があるかの如く振舞えるかどうか、現に物理的に自分にあるもので、いわゆる「女性脳」という仮想領域を作り出せるかどうか試みているのではなかろうか。

 柿内園子から見た綿貫は、この時点で明らかに異性である。いや当たり前のことを書いたようだが、ここでいう異性とは同性同士の親和性を欠いた者である。男同士の付き合いに混ざった異物としての女性、女同士の集まりに異物として紛れた男性、そういった親和性を欠いたものとして綿貫は現れている。この感覚に綿貫を置くことは、いわゆる「すべて男目線」で書かれた村上春樹作品ではありえないことだ。こういう言い方もどうかと思うが、村上春樹はいつでもおちんちんをぶら下げている。しかし谷崎は、少なくとも『卍』を書いている谷崎はまるでおちんちんがないかのような印象がある。そうでなければ同性同士の親和性を欠いた綿貫を捉えきれなかったのではなかろうか。

 そいからさっきの綿貫のことは、そんな調子で、折角引き合わしてもろても何やお互に探り合いしててちょっとも気イ許せしませんのんで、その日イ一ぺん会うたなり、孰方からも「会お」いい出したことあれしませんし、光子さんも二人を仲好うさすことはあきらめてしもたらしいのんですが、なんでも三人で松竹い行いた、――あれから半月ぐらい後でしたやろか、ゆうがた、五時半ごろまで遊んでましたら、「姉ちゃん先行いんでくれへん? あてもうちょっと用あるよって」と、追い立てるようにしなさるのんで、常時じょうじのことですよって腹も立てんと、「そんなら先行いぬわ」いうてその宿屋のろうじ出ましたら、小声で「お姉さん」と後から呼ぶもんあるのんで、振り向いて見たら綿貫ですねん。「お姉さん、今お帰りがけですか」いいますよって、「へえ、そうです、光ちゃん待ってはるさかい早はよ行ったげなはれ」と、わざと皮肉にいいながら、私はタクシー掴つかまえるつもりであの通りを宗右衛門町の方い歩いて行きますと、「ちょっと、……ちょっと、……」いうて引っ附いて来て、「僕、実はお姉さんに聞いてもらいたいことあるのんですが、差支いなかったら、一時間ぐらいこの辺散歩してくれませんか。」いうのんです。「そら、どんなお話か聞かしてもろてもよろしですが、さっきからあんた待ってなさるで。」「ナニ、それやったら何処ぞから電話かけときます」いうて、二人で彼処の「梅園」い這入はいってぜんざいたべながら電話借って、そいから太左衛門橋筋を北の方い歩き歩き話しましてん。

(谷崎潤一郎『卍』)

 綿貫にぜんざいを食わせる辺りも谷崎のぬかりのないところだ。めんどくさい異物、綿貫に付き合う代わりに主導権はあくまで大阪のおばちゃん、柿内園子にあるのだ。

 これまた常におちんちんをぶら下げていた庄司薫は、薫君主導だと威勢よくミラノのステーキ定食(これはこの店の名物で、五百円でスープからコーヒーまで全部つくのだ『白鳥の歌なんか聞こえない』)南下を御馳走するのだけど、由美ちゃんに合わせる感じだと「よくあることだけど女の子たちで超満員」の「若草」で「お雑煮でもたべようか」なんてことになる。薫君は「お雑煮」を食べ、由美ちゃんは「フルーツみつ豆」を注文する。

 これ、何気ないようなことだが「よくあることだけど女の子たちで超満員」の「若草」に薫君はおちんちんをぶらさげたまま行く。「若草」という譲歩自体が男根ロゴス主義であることが「よくあることだけど女の子たちで超満員」の中に示されている。

 谷崎が選んだぜんざいは、柿内園子の「大阪のおばちゃん性」のあらわれにほかならない。いや、「ほかならない」って書いてみたかっただけ。


※そうそう、この間この記事で卒論について相当厳しいことを書いたけれど、

作品そのものを捉えきれないとしたらだよ、むしろ一つの作品に絞り込まないで、その人の作品群の中から、例えばどういう店でどういうメニューを選択したかという辺りを切り取って並べて、そこから時代や文化、人物の関係性何かを論じてみれば、それらしいものが一本書けるんじゃないの。「フルーツみつ豆のセクシャリティに関する一考察 ━━ 薫くんと由美ちゃんの若草における注文を巡って」とか「谷崎潤一郎の『卍』における蜜柑、蕨、ぜんまい、土筆、白葡萄酒、桜ん坊のゼリー、煮抜き、ぜんざいの意味」とか書いたらええやん。知らんけど。




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