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岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する82 夏目漱石『それから』をどのくらい正確に読めるか⑩

※原材料費高騰、円安の影響により価格変更させていただきました。

情調の支配を受ける

 午過になってから、代助は自分が落ち付いていないと云う事を、漸く自覚し出した。腹のなかに小さな皺が無数に出来て、その皺が絶えず、相互の位地と、形状とを変えて、一面に揺いている様な気持がする。代助は時々こう云う情調の支配を受ける事がある。そうして、この種の経験を、今日まで、単なる生理上の現象としてのみ取り扱っておった。代助は昨日兄と一所に鰻を食ったのを少し後悔した。散歩がてらに、平岡の所へ行ってみようかと思い出したが、散歩が目的か、平岡が目的か、自分には判然たる区別がなかった。婆さんに着物を出さして、着換えようとしている所へ、甥の誠太郎が来た。帽子を手に持ったまま、恰好の好い円い頭を、代助の前へ出して、腰を掛けた。

(夏目漱石『それから』)

 夏目漱石はタイムトラベラーという本を書いた。

 それはまだ民間旅客機など存在しない時代、大正五年に書かれた『明暗』に「あの緩い人はなぜ飛行機へ乗った。彼はなぜ宙返りを打った」と比喩なのか何なのか分からない表現であるにせよ、「乗り物」としての飛行機が現れていたことがきっかけだった。当時の飛行機は見物するもので、乗り物になるのは第二次世界大戦後の事である。
 夏目漱石にはそうした時代を超越した突飛な感覚がある。

 ここもそうだ。

 現代のわれわれからすると、これは町内の繊毛運動と腸内細菌が意識され、なおかつ腸内細菌が感情を支配する仕組みまでが見通されているかのようでさえある。 

 無論そのようなことが言われ始めたのはごく最近のことで、当時は腸内細菌という言葉自体は知られていたものの、情調の支配を受けるなどということは考えられもしなかったことである。ここで注目すべきは単なる生理上の現象でないところで、この現象を意識しているところだ。仮に腸内フローラが神経伝達物質を生成しているとするなら、それは己の生理と言えるのか、それとも腸内フローラの生理なのかと、そんなことまで考えた明治の文豪は他にあるまい。

 いや、現代まで一人もあるまい。

散歩が目的か、平岡が目的か


 ここも自分とか意識とかそういうものが問われているところだ。『それから』には「方便」という文字が四度現れ、意識して建前と本音がある場合が一つ区分けされている。しかしそもそも我々の意識というものは不明瞭なもので、それこそ腹のなかの皴の動きまで考えてしまうと、何が自分なのか分からなくなる。
 封建制度から解放されて、自由という選択肢を与えられた平民が、勝手に近代的自我に目覚めるわけではないのだ。

 よくよく考えてみれば封建制度から解放されて、自由という選択肢を与えられた平民とは『それから』においてはまさしく長井誠之進である。

 代助の父は長井得といって、御維新のとき、戦争に出た経験のある位な老人であるが、今でも至極達者に生きている。役人を已めてから、実業界に這入って、何かかにかしているうちに、自然と金が貯って、この十四五年来は大分の財産家になった。

(夏目漱石『それから』)

 明治四十一年に三十歳として勘定すれば長井代助にとって封建時代は既に講談本の世界である。生まれ落ちた時点で既に西南戦争は終わり、物心がつく頃には明治が出来上がっていた。十歳ごろになると大日本帝国憲法も出来る。そんな長井代助はそもそも封建主義に拘束もされていないし解放もされていない。1970年代の若者が、戦争を知らない子供たちだとフォークソングを歌うようなもので、長井代助は長井得の次の世代の人間だ。

 そして封建制度から解放された長井誠之進の生き方はまさに「誠」を建前に「得」に忠実なものであったことが想像に難くない。「役人を已めてから、実業界に這入って、何かかにかしているうちに、自然と金が貯って」とはいかにも簡単に成功したかのような話に聞こえるが、実際は後で、

 代助は自分の父と兄の関係している会社に就ては何事も知らなかった。けれども、いつどんな事が起るまいものでもないとは常から考えていた。そうして、父も兄もあらゆる点に於いて神聖であるとは信じていなかった。もしやかましい吟味をされたなら、両方共拘引に価する資格が出来はしまいかとまで疑っていた。それ程でなくっても、父と兄の財産が、彼等の脳力と手腕だけで、誰が見ても尤と認める様に、作り上げられたとは肯わなかった。明治の初年に横浜へ移住奨励のため、政府が移住者に土地を与えた事がある。その時ただ貰った地面の御蔭で、今は非常な金満家になったものがある。けれどもこれは寧ろ天の与えた偶然である。父と兄の如きは、この自己にのみ幸福なる偶然を、人為的にかつ政略的に、暖室を造って、拵え上げたんだろうと代助は鑑定していた。

(夏目漱石『それから』)

 このように分析される。クラゲのように感情もなく得を求めて帆走する者たち、そこにもまた近代的自我などというものがあっただろうか? そこからずっと日本人はエコノミックアニマルではなかったか? そうでなければ私の本ももう少しは売れるだろう。

早過ぎるじゃないか

「もう学校は引けたのかい。早過ぎるじゃないか」
「ちっとも早かない」と云って、笑いながら、代助の顔を見ている。代助は手を敲いて婆さんを呼んで、
「誠太郎、チョコレートを飲むかい」と聞いた。
「飲む」
 代助はチョコレートを二杯命じて置いて誠太郎に調戯いだした。

(夏目漱石『それから』)

 この記事を読んでいる人は私のことをおからの好きな素浪人なんかと勘違いしているかもしれないが、本当は幼稚園の年長組なので小学校の事はまだ知らない。なんでも給食と昼休みがあるので夕方までは授業があるような感じがするが、実際は現代でもお昼過ぎに開放されることもあるようだ。明治時代の小学校がどうだったか、ここは注釈が欲しいところ。

 そういえば、ベースボールに熱中している筈の誠太郎が折角の放課後にベースボールをやらないでいる。

尋常小学校1年生の授業時間は、明治28年時点で5時間あり、午前・午後ともに授業があったと推測できる。また、佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』から、明治33年以降の尋常小学校1年生は弁当を持参していたことも推測できる。

 なるほど、弁当持参なら昼過ぎに下校は早すぎる。

偉いのは知れ切ってるじゃないか

「叔父さんはのらくらしているけれども実際偉いんですってね」と云った。代助もこれには一寸呆れた。仕方なしに、
「偉いのは知れ切ってるじゃないか」と答えた。
「だって、僕は昨夕始めて御父さんから聞いたんですもの」と云う弁解があった。

(夏目漱石『それから』)

 いや、知らない。まだ代助は何事も成し遂げてはいない。大著作を書き上げてもいないし、第一国家の役にも立っていない。タナグラを眺めるくらい誰にでも出来る。特殊人の成果が出てこない。
 しかし代助は「偉いのは知れ切ってるじゃないか」という。これが分からない。ダニング=クルーガー効果というわけでもあるまい。


あれで中々解った所がある


 誠太郎の云う所によると、昨夕兄が宅へ帰ってから、父と嫂と三人して、代助の合評をしたらしい。子供のいう事だから、能く分らないが、比較的頭が可いので、能く断片的にその時の言葉を覚えている。父は代助を、どうも見込がなさそうだと評したのだそうだ。兄はこれに対して、ああ遣っていても、あれで中々解った所がある。当分放って置くが可いい。放って置いても大丈夫だ、間違はない。いずれその内に何か遣るだろうと弁護したのだそうだ。すると嫂がそれに賛成して、一週間ばかり前占者に見てもらったら、この人はきっと人の上に立つに違ないと判断したから大丈夫だと主張したのだそうだ。

(夏目漱石『それから』)

 嫂の占者の話はさておき、誠吾の「あれで中々解った所がある」とは、

・無暗にセンチメンタルな文句を口にしなかった点
・思わせ振りの、真面目や、熱誠ほど気障なものはないと自覚している点
・ただ互が差し向いであるが為めに、旨く飲めたと云う自覚を、互に持ち得る様な話をした点
・策を弄せず、就職斡旋の話を後で持ち出した点

 ……などに関する評価でもあろうか。この時点で長井代助の生き方はまさに「誠」を建前にせず、「得」に盲目なものではなかったものであり、その点が兄にも認められたことが想像に難くない。

生存競争の記念

 門と玄関の間が一間位しかない。勝手口もその通りである。そうして裏にも、横にも同じ様な窮屈な家が建てられていた。東京市の貧弱なる膨脹に付け込んで、最低度の資本家が、なけなしの元手を二割及至三割の高利に廻そうと目論で、あたじけなく拵え上げた、生存競争の記念であった。

(夏目漱石『それから』)

 毒舌文明批評家が好きなことを言っている。まさか江戸の長屋を知らない筈もあるまいに、こうして「東京市の貧弱なる膨脹」と言ってみるのは、まさしく代助が封建制度から解放された世代などではあり得ないことの証拠である。

 もっとも驚いたのは、どこまで行っても東京がなくならないということであった。しかもどこをどう歩いても、材木がほうり出してある、石が積んである、新しい家が往来から二、三間引っ込んでいる、古い蔵が半分とりくずされて心細く前の方に残っている。すべての物が破壊されつつあるようにみえる。そうしてすべての物がまた同時に建設されつつあるようにみえる。たいへんな動き方である。

(夏目漱石『三四郎』)

 田舎者の三四郎にはただ驚きであった破壊と建設の大変な動きが、東京生まれの代助には「東京市の貧弱なる膨脹」と映るのだ。破壊と建設の大変な動きが今も続いている東京を日々見続けて思うのは、むしろ三四郎的感覚だ。殆どの破壊と建設の大変な動きそのものは自分とは全く無関係ながら、実際にあちこちで日々続いている工事を見ると、そんなに破壊と建設をひっきりなしにやらないといけないものかねと考えてしまう。本当に東京はどこもかしこも工事だらけだ。とてもじゃないが、「生存競争の記念」というような定点が捉えられない。
 そういう意味でも代助はとにかく特殊人ではある。

これを敗亡の発展と名づけた

 今日の東京市、ことに場末の東京市には、至る所にこの種の家が散点している、のみならず、梅雨に入った蚤の如く、日毎に、格外の増加律を以って殖えつつある。代助はかつて、これを敗亡の発展と名づけた。そうして、これを目下の日本を代表する最好の象徴とした。
 彼等のあるものは、石油缶の底を継ぎ合わせた四角な鱗で蔽われている。彼等の一つを借りて、夜中に柱の割れる音で眼を醒さないものは一人もない。彼等の戸には必ず節穴がある。彼等の襖は必ず狂いが出ると極っている。資本を頭の中へ注ぎ込んで、月々その頭から利息を取って生活しようと云う人間は、みんなこういう所を借りて立て籠もっている。平岡もその一人であった。

(夏目漱石『それから』)

 日本は日露戦争で勝利したと言われている。しかし実際には何とか引き分けに持ち込んだようなもので、賠償金も取れず、負債だけが残ってしまい、結果的にはその後も延々と続くロシアとの負の負債は第二次世界大戦末期、あるいは八月十五日以降一気に噴き出し、そのマイナスの流れは現在まで続いていると考えた時、ここで代助が言いう「敗亡の発展」とは言い得て妙だというしかない。

 無論当時実質的に日本は敗北したのだと云うものは樺太に住んでいたもの以外は誰もあるまい。むしろ当然得るべき賠償金がないことに憤り、日比谷騒動を起こすのが庶民の感覚だ。賠償金がとれないのは、日本が圧勝したわけではないということだという理窟は庶民には分からない。なんとか講和に持ち込めたのだと云えるものが出てくるのは相当後のことだ。

 無論ここで敗北の意味を日露戦争の敗北という意味に限定するつもりはない。寧ろ「目下の日本を代表する最好の象徴」なのであれば、国際経済における敗北であり、国際政治における敗北なのであろう。火中の栗を拾わされるというポンチ絵通り、日本は英吉利にそそのかされて露西亜と戦わざるを得なかった。少なくとも政治的には敗北である。

 それにしても当時そんな解釈が出来たのなら、代助は国際政治学者として昼間からシャンパンでも飲めばよかったかもしれない。

みんなこういう所を借りて立て籠もっている


 しかしここで少しロジックが撚れていないだろうか。「資本を頭の中へ注ぎ込んで、月々その頭から利息を取って生活しようと云う人間」について、岩波はこう説明する。

 明治社会の産業化は官僚、司法官、技術者、近代的教養を身につけた多くの人々を必要とした。彼らは農村の小地主や富農の子弟、旧士族の一部であった。そのような人々が、中、高等教育を受け、つまり、頭の中へ資本を詰め込んで、その頭から月給という利息を得て生活する、の意。

(『定本漱石全集 第六巻』岩波書店 2017年)

 なるほど。「なにごとも体が資本」と言う場合の「資本」を「頭に入れるもの」≒「教育」として、「利息」は「月給」と読むわけだ。なるほどそう解釈すると代助の文明批評は少し行き過ぎてはいまいが。つまり中、高等教育を受けた賃金労働者はみな粗末な賃貸住宅に住まなくてはならないことになる。逆に持ち家があるものは中、高等教育を受けた賃金労働者にはなれないことになる。

 ここには高等教育を受けたがやすやすと賃金労働者にはならないという、上等人種の特殊な事情を正当化するために、外集団長野二郎同質性バイアスに陥ってはいまいか。

 例えば『行人』の長野二郎はどうやら高等教育を受けたらしいが、設計事務所のようなところで働いているが、庭付きの小奇麗な一軒家で暮らしている。『彼岸過迄』の田川敬太郎は田口要作の世話で職を得た後も本郷台の三階建ての下宿に暮らしているだろう。
 ここは敢えて漱石が代助の偏見を拵えているところだ。

箪笥の環(くわん)

 代助は垣根の前を通るとき、先ずその屋根に眼が付いた。そうして、どす黒い瓦の色が妙に彼の心を刺激した。代助にはこの光のない土の板が、いくらでも水を吸い込む様に思われた。玄関前に、この間引越のときに解いた菰包の藁屑がまだ零れていた。座敷へ通ると、平岡は机の前へ坐って、長い手紙を書き掛けている所であった。三千代は次の部屋で箪笥の環(くわん)をかたかた鳴らしていた。傍に大きな行李が開けてあって、中から奇麗な長襦袢の袖が半分出かかっていた。

(夏目漱石『それから』)

 今の箪笥には環はついていないから、若い人には何のことか分からないだろう。昔の箪笥には引っ張りやすいように金属製の環がたくさんついていた。

長い手紙を書き掛けている所であった


 こういうところだ。平岡は長い手紙を書きかけている。つまり紙が長いのだ。また引っ越しの片付けも済まないうちに。これが誰宛でどんな内容なのかとは書かれていない。大抵の長い手紙は言い訳である。

 平岡が、失敬だがちょっと待ってくれと云った間に、代助は行李と長襦袢と、時々行李の中へ落ちる繊い手とを見ていた。襖は明けたまま閉て切る様子もなかった。が三千代の顔は陰になって見えなかった。
 やがて、平岡は筆を机の上へ抛げ付ける様にして、座を直した。何だか込み入った事を懸命に書いていたと見えて、耳を赤くしていた。眼も赤くしていた。

(夏目漱石『それから』)

 それはやはり金に関する事だろうと察しが付く。ただそれ以上には分からない。

どうだい

「どうだい。この間は色々難有ありがとう。その後一寸と礼に行こうと思って、まだ行かない」
 平岡の言葉は言訳と云わんより寧むしろ挑戦の調子を帯びている様に聞こえた。襯衣も股引も着けずにすぐ胡坐あぐらをかいた。襟を正しく合せないので、胸毛が少し出ている。
「まだ落ち付かないだろう」と代助が聞いた。
「落ち付くどころか、この分じゃ生涯落ち付きそうもない」と、いそがしそうに烟草を吹かし出した。

(夏目漱石『それから』)

 この「どうだい」は使われなくなった。普通は「ところでどうだい、この間の件は?」と質問の前置きになってしまう。「どうだい」だけで完結する使用例はとんと見当たらない。

胸毛が少し出ている


 仮にこの平岡常次郎を平岡公威、つまり三島由紀夫の縁者と考えてみるととこの胸毛と云うのは興味深い。


立派な家はみんな株屋が拵える

 代助は平岡が何故こんな態度で自分に応接するか能く心得ていた。決して自分に中るのじゃない、つまり世間に中るんである、否己れに中っているんだと思って、却って気の毒になった。けれども代助の様な神経には、この調子が甚だ不愉快に響いた。ただ腹が立たないだけである。
「宅の都合は、どうだい。間取の具合は可さそうじゃないか」
「うん、まあ、悪くっても仕方がない。気に入った家へ這入ろうと思えば、株でも遣るより外に仕様がなかろう。この頃東京に出来る立派な家はみんな株屋が拵えるんだって云うじゃないか」
「そうかも知れない。その代り、ああ云う立派な家が一軒立つと、その蔭に、どの位沢山な家が潰れているか知れやしない」
「だから猶住み好いだろう」
 平岡はこう云って大いに笑った。

(夏目漱石『それから』)

 住宅ローンという発明により、今や賃金労働者が立派な家を建てられるようになった。しかし労働者と投資家の関係は当時も今もさして変わらないのではなかろうか。
 またこのことは実際に投資をやっていない人間には今も昔も全く理解できないのではなかろうか。平岡が言うように株でも遣るより外に仕様がないのであれば、金融経済を学び、投資で金を稼げばいいわけである。実際『こころ』の先生は債権の利子で生活している。ところが代助はその選択肢を最初から持たない。麺麭の為の労働と同様に、金そのものにも重きを置かないところがある。まさにお坊ちゃんである。

昔の平岡

 三千代は小供の着物を膝の上に乗せたまま、返事もせずしばらく俯向いて眺めていたが、
「貴方のと同じに拵えたのよ」と云って夫の方を見た。
「これか」
 平岡は絣の袷の下へ、ネルを重ねて、素肌に着ていた。
「これはもう不可ん。暑くて駄目だ」
 代助は始めて、昔の平岡を当面に見た。
「袷の下にネルを重ねちゃもう暑い。襦袢にすると可い」
「うん、面倒だから着ているが」
「洗濯をするから御脱ぎなさいと云っても、中々脱がないのよ」
「いや、もう脱ぐ、己も少々厭になった」

(夏目漱石『それから』)

 ここは「昔の金歯」同様分からないところだ。「これはもう不可ん。暑くて駄目だ」というところに昔の平岡らしさがあるのだとして、「始めて」というまでの特殊なところが掴めないからだ。

 例えば正岡子規は夏でもフランネルの下着を着ていたとしよう。そんな人は滅多にいない。それでフランネルの下着を見て、ああ、昔の子規らしいなと思ったというのなら分かる。ただ漱石はそうした段取りを飛ばして「昔の平岡」と書いているように思える。こうした解りそうで解らないところにこそ何かしら注解が必要だろう。


[余談]

 昨日、この本を買ってくれた方、ありがとう。

 これを買ってくれた方と同じ人かな?

 外もよろしく。



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