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朕はからっぽである 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む⑦

 ごく控えめに言って平野啓一郎はこの時代を代表するような優れた作家である。それは日本国内に於てというような狭い意味ではない。おそらくトーマス・マンやサルトルのような、後に語り継がれるべきなにものかを持っている作家であることは決して疑うことはできない。

 そしてまだ金閣寺論が続いているのに『鏡子の家』が論じ始められると、「天皇の挿入」というお行儀の悪い作法を除いて、つまり『金閣寺』に天皇が隠蔽されているという誤った前提に関する部分を除いて、この書き手がやはり優れた読み手でもあり、なおかつまた正確な言葉の使い方を知っている評論家であることが確認できる。

 私自身これまで『鏡子の家』に関しては「ぼんやりとした戦後が描かれていて(1か月で15万部というなかなかの売り上げにも関わらず)不評だった」という程度のことしか明確に言語化していなかった。その曖昧なところを平野は実にたやすく正確に言語化して見せる。

 彼はいわば『鏡子の家』という小説そのものだった。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 杉本清一郎、深井俊吉、舟木収、山形夏雄という四人の男たちは三島由紀夫自身のある一面を投影させられ、戦後社会を生きる可能性を模索していく。現実として三島は例えば八百円の本が一冊売れれば八十円が入ってくるという作家生活を生業としながら、貧弱な体の改造に取り組みつつ、人気作家としても少々行き過ぎた社交を始めていた。

 そうして実験された四つの生のうち、作者自らが、「出来上がった作品はそれほど絶望的ではなく、ごく細い一縷の光りが、最後に天窓から射し入ってくる」と語っているように、唯一未来への希望が託された夏雄の生き方を、つまりは芸術家であることによって「生きる」道を、三島は、その死の直前まで断念してはいなかった。何故なら芸術は、「熟練」によるより他に完成の術はなく、それは即ち彼に生き続ける根拠を与えてくれるからである。事実、「『天人五衰』創作ノート」の片隅には、「芸術の幸福(鏡子の家)」という一言が記されている。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 しかしよくよく考えてみればボクサー、売れない俳優、日本画家という役割を割り振られた深井俊吉、舟木収、山形夏雄に分裂しようも、三島由紀夫は八百円の本が一冊売れれば八十円が入ってくるという作家なのである。貿易会社のエリート社員である杉本清一郎の生き方が否定されてしまえば、生き続ける根拠はあっても芸術が成り立たない。生活が成り立たないのではない。仮に希望が山形夏雄にしかないのであれば、三島は八百円の本が一冊売れれば八十円が入ってくる芸術を否定していることにもなるのだ。

 ニヒリズムとどう向き合うか。

 戦後日本とどう向き合うか。それを他人である放火魔の個人的な問題ではなく、まさしく生々しい自分自身の問題として捉えれば、三島は八百円の本が一冊売れれば八十円が入ってくるという作家生活を生業とするしかなかった、ともう一度念押ししても良かろう。

 貧弱な体の改造に取り組みつつ、人気作家としても少々行き過ぎた社交を始めていたのは、例えば結婚(この時はまだ未婚)やビフテキを食べることと同じ生活であるが、元々三島由紀夫はただの詩を読む少年である。

 そういう意味では山形夏雄に希望が見いだされることはごく自然成り行きというよりも、最初から決まっていたこと、既定路線である。問題はむしろ自分の中にボクサーや俳優がいることではなく、実は三島由紀夫がエリートながら決して有能な官僚にはなれず、八百円の本が一冊売れれば八十円が入ってくるという作家でしかなかったことではないか。三島由紀夫はそのあられもない自画像に最後まで抗った。三島由紀夫は私小説を書くことができない作家だった。

 こういってみては残酷かもしれないが、もしも三島由紀夫の言う通り、芥川龍之介の苦悩が体操で治るとしたら、溝口の苦悩も莫大な金で解決するはずだ。この世の中の悩みはたいてい金で解決する。金で買えないのは時間くらいなものだ。そのロジックをあらかじめ封じるように、三島由紀夫は金持ちの鏡子を埒外に置いた。

 このことは金閣寺論に『鏡子の家』を挿入しなおかつ『豊饒の海』に橋渡しするとしたら決して無視していい問題ではない。『金閣寺』で繰り広げられた観念の空中戦は最終的に金閣寺を焼き、溝口を生き延びさせた。その出口を模索する作品として『鏡子の家』が書かれたと見立てるならば、やはりその時代というものを無視することはできない。

 その時代のニヒリズムとは「経済が不況から立ち上ると同時に人間がボツラクするという」状況によってもたらされたものだ。また未来に希望が持てない、貿易会社のエリート社員である杉本清一郎が世界の崩壊を確信しているのは、第二次世界大戦が済んだとはいえ、世界は着々と第三次世界大戦へと準備を進めていて、本当にいつ次の核ミサイルが発射されてもおかしくない状況があったからだ。

 三島由紀夫の欺瞞は既にそういう状況にあるにも関わらず、金閣寺は焼けなかった、戦争は終わったと無理に線引きしてしまったことにもある。

 仮に溝口の出口が山形夏雄の芸術であり、それが三島由紀夫自身の出口でもあったとしたら、三島自身のニヒリズムの根本は八百円の本が一冊売れれば八十円が入ってくるという作家でしかなかったことであり、白髪になって俳句を詠む未来に対して決定的に何かが欠けていたからではないか。

 平野啓一郎を見習って少し先回りしてしまえば、『豊饒の海』は金の心配のない貴族と金持ちたちの話である。大阪控訴院の判事であった本多繁邦は戦後の世界が描かれる『天人五衰』においては現金と株と土地に資産を振り分ける三分法によって財産を増やし続けていることになっている。

 そんな財産家となり、なおかつ覗きで警察に捕まり、安永透に火かき棒で殴られる未来を三島は拒んだ。お坊ちゃんから小金持ちになった三島は金には執着しなかった。そんなものでは決して埋めることのできない大きな空白があることを言語化しないまでもどこかで意識はしていたのであろう。そのことは『金閣寺』において、

或る名僧は死ぬまで自分の寺の銭勘定をしていたそうである。

(三島由紀夫『金閣寺』)

 としてあらかじめ封じられていた可能性であった。立派な寺を継ぎ金持ちになる。その選択肢は溝口にはなかった。

 しかしそもそも溝口は三島ではない。杉本清一郎、深井俊吉、舟木収、山形夏雄という四人の男たちは三島由紀夫自身のある一面を投影させられていたが、彼らが三島由紀夫と根本的に違うのは、三島は有能なサラリーマンでもなく、人気のある大根役者であり、へっぽこボクサーであり、八百円の本が一冊売れれば八十円が入ってくるという作家であり、何もニヒリズムを感じなくとも生きていけたし金もそこそこ持っていたことだ。そのちょっとした見栄、自己戯画化ならぬ自己美化が、三島由紀夫という作家の自分を決して客観視できないという欺瞞が『鏡子の家』にむしろ私小説性を与えた。

 彼らは三島由紀夫の分身のようでありつつも、三島由紀夫自身ではありえない。そのことによってむしろ三島由紀夫という作家の私小説作家としての限界も指示している。『鏡子の家』は私小説的でありながら私小説としては不完全なものだった。

 三島由紀夫のニヒリズムはこの宇宙の中で地球人として、白髪頭で俳句を詠んで生活していくことへの不安に根差している。それは恐らく体操では解決しなかった実存に関する根本的な不安である。

 芸術の完成はいかにして可能なのか、とも八百円の本が一冊売れれば八十円が入ってくる作家は考えた。しかしどうも気が散っている。集中できない。そして空飛ぶ円盤についても研究した。西洋式こっくりさんにも参加してみた。あれこれやってもどうしても空っぽは埋まらない。そのからっぽそのものをある意味生々しくも無残な形で露呈したのが『鏡子の家』という偽私小説ではなかったのか。

 三島由紀夫は『金閣寺』で放火魔の凡庸さを突き詰めながらつい自分の中ものぞいてしまった、そして慌てて個人ではなく時代を描こうとして、やはり空っぽに気がついた。しかしそれが自分自身の空っぽで、どうしようもないものであることは認めがたかった。

 完全な私小説とは例えばこんなものである。 

「それでは私がひとりで食べる。私は蟹が好きなんだ。どうしてだか、ひどく好きなんだ。」おつしやりながら、器用に甲羅をむいてむしやむしや食べはじめて、ほとんど蟹に夢中になつていらつしやるやうに見えながら、ふいと、「死なうかと思つてゐるんだ。」
「え?」私は、はつとして暗闇の中の禅師さまの顔を覗き込みました。けれども、こんどは蟹の脚をかりりと噛んで中の白い肉を指で無心にほじくり出し、いまはもう蟹の事の他は何も考へていらつしやらぬ御様子で、さうして、しばらくして、またふいと、
「死なうと思つてゐるのです。死んでしまふんだ。」

(太宰治『右大臣実朝』)

 

 こんな私小説が三島由紀夫にはどうしても書けなかった。


 実は『鏡子の家』は実存を巡る哲学的小説に逃げた作品でもある。なにか生活ではないものを求めている。平野は夏雄の世界全体が無意味化する体験に対して「整理が必要なのは、その言語の機能である」として、

 これらの事物は、名詞によって分節化されているが、彼が特殊に、一回的に経験するところの対象の全体性を表現する言葉はない。松露は松露だが、「松露」と言っただけでは、そこに現れているところのものは汲みつくせないのであり、人に伝えることもできない。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 と言語の本質的な不可能性について指摘し始める。『鏡子の家』においてこの問題は基本的に解決していないように思う。

 無論世界全体が無意味でないように見せかける欺瞞が言語化であり、意味は常に誤謬であり、夏雄の体験は決して特別なものではありえない。そうしたことは日々具体的に確認されていることだからだ。

 しかし突然世界が無意味化する体験そのものは夏雄自身にとってはまさに特別なものであったに違いない。八百円の本が一冊売れれば八十円が入ってくる作家が言語の本質的な不可能性を暴いて見せることも決して尋常なことではない。

 やや先走るようではあるが、やはりここにはハイデッガー的なものが既に見られ、それが『金閣寺』の終盤から『鏡子の家』に向けて連なっていると見るべきではあろうか。

 ハイデッガーの「脱自」はこれもまた極端にかみ砕いて言えば、「人間の内面は何もない、空っぽなので、外へでていくしかない」ということで、まさに中身がからっぽで何もない三島由紀夫にぴったりのアイデアだ。

 この行動原理はまだ『鏡子の家』にはない。

 ただ「なにもない」はあった。最終的に三島のロジックに於て行動とは最終的に死ぬことである。「行動=死」である。文学は生である。『鏡子の家』はまた生の側にいる。

 しかし生きる可能性を模索する中でたまたま始めた肉体改造や社交が『鏡子の家』の範疇を超えて肥大していく。『金閣寺』にも『鏡子の家』にもなかったものに三島由紀夫が気がついたとき、突然コスプレと行動が始まる。詩を書く少年が八百円の本が一冊売れれば八十円が入ってくる作家に飽き足らず、大蔵経を全部読むわけにはいかんと気がついたとき、行動が始まる。

 それが一体いつのことなのか、まだ誰も知らない。何故ならまだ書いていないからだ。

[余談]

 今日も頑張るってなんだろう?

 


 


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