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岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する181 夏目漱石『明暗』をどう読むか30 少しは真面目にやろう

 あるいは萩原朔太郎の言うところの「小説といふものはだらだらして、くだらないことを細々と書き立てるので」という批判はほとんどすべての長編小説には当てはまるかもしれない。短篇小説と長編小説では言葉の密度が違う。初期村上春樹作品などで比較すると明らかに書き分けている感じがある。川端康成や三島由紀夫などが例外かもしれない。『奔馬』など言葉の密度が高すぎて読んでいるとかなり疲れる。
 ところで夏目漱石作品はどうかというと、短編小説が少ないので短篇小説と長編小説の比較そのものは難しいが、長編小説の文体にはほかの小説家の作品と比べて著しい違いがある。
 
 少し悪い言い方をすると地の文が「無駄に抽象的」なのだ。それでいて会話は手拍子にならないで常に含みを持っている。ということは、つまり?

 そう。だらーと読むと極端に「読み飛ばしやすい」という特徴を持つている。「小説といふものはだらだらして、くだらないことを細々と書き立てるので」とは言わないが、そう受け止める人がいても仕方がないなという要素はある。しかしこれまで指摘してきたように気がついてみるとここは凄いなという仕掛けが随所に隠れている。まるでそういうゲームのように読者が試されている。

 この読者を試すという感覚は芥川龍之介作品にも共通している。太宰にもほんの少しそう言うところがなくはないが、やはりこの二人が突出している。

 太宰には夏目漱石のひねりが見えていなかったが、芥川には見えていたのではないか、見えていて欲しいと思う所以である。

津田はふと眼を転じた

「でも気になる事はたしかなんでしょう」
「どうでも勝手に解釈するがいい」
「ええ。――どっちでも、とにかく、それが兄さんの変った証拠じゃありませんか」
「馬鹿を云うな」
「いいえ、証拠よ。たしかな証拠よ。兄さんはそれだけ嫂さんを恐れていらっしゃるんです」
 津田はふと眼を転じた。

(夏目漱石『明暗』)

 行動心理学、マイクロジェスチャーなどという言葉が現れる以前から、態度に心理が現れることは当たり前に知られていた。漱石は英文学を読んでいても英文学は理解できないと心理学の本も研究した人なので、この点は抜かりない。

 しかしここで図星を突かれたと考えた場合、何故津田由雄がお延を恐れるのだろうか。

 これまでこの問題は何かしらの津田の過去が小林によってお延に伝えられることそのものを恐れてきたと考えられてきた。ただその何かしらというのが曖昧だっただけだと。

 しかしよくよく考えてみれば可愛がってもいないし惚れてもいない一重瞼の容貌の劣者に元カノがいたことを知られたとして一体何を恐れる必要があるだろうか。ここは二人の会話が完全に噛み合っていると考えると答えが見えない。会話というものは常に少しずれているものだと仮定すると、津田由雄は秀子が言うズバリの意味ではないところで、やはりお延を恐れているのではないかと考えられる。

 お延を恐れる?

 そう考えてみるとここで一つの可能性が浮かび上がる。

 津田はあることでお延に頭が上がらないのではないかと。指輪はそのお詫びなのではないかと。

 指輪の購入の動機については明示的な部分では不明といって良い。しかしどうも愛の証というニュアンスは感じられない。津田は「偶然」とまで言ってみる。

 たとえば初夜でたまたま中折れし、その後セックスレスなら、指輪も買うだろうし、お延を恐れもするのではなかろうか。

 たまたま?

 わざわざ岡本を糖尿病にするあたり、やはり漱石はそういう仕掛けをしていないだろうか。

僕がいくら小林を怖がったって

 そうして枕に頭を載せたまま、下からお秀の顔を覗き込むようにして見た。それから好い恰好をした鼻柱に冷笑の皺を寄せた。この余裕がお秀には全く突然であった。もう一息で懺悔の深谷へ真ッ逆さまに突き落すつもりでいた彼女は、まだ兄の後に平坦な地面が残っているのではなかろうかという疑いを始めて起した。しかし彼女は行けるところまで行かなければならなかった。
「兄さんはついこの間まで小林さんなんかを、まるで鼻の先であしらっていらっしったじゃありませんか。何を云っても取り合わなかったじゃありませんか。それを今日に限ってなぜそんなに怖がるんです。たかが小林なんかを怖がるようになったのは、その相手が嫂さんだからじゃありませんか」
「そんならそれでいいさ。僕がいくら小林を怖がったって、お父さんやお母さんに対する不義理になる訳でもなかろう」
「だからあたしの口を出す幕じゃないとおっしゃるの」
「まあその見当だろうね」
 お秀は赫っとした。同時に一筋の稲妻が彼女の頭の中を走った。

(夏目漱石『明暗』)

 ここでお秀の追及が案外芯を食っていなかったことが解る。しぐさからして津田由雄は明らかにお延を恐れているように見えた。しかし追い詰められてはいない。何故か?

 それはもしかすると津田由雄にはもう追い詰められるほどの「主体」そのものがないからなのではなかろうか。痛みは常に自己を確認させてくれる。神経がなければ痛みはなくなるが、津田は神経を抜かれた知覚過敏の歯のようなものなのではなかろうか。

 そんな生き物はどうやっても言葉では追い詰めることはできまい。さらに「口を出す幕じゃない」には根拠もある。現に津田由雄は秀子の良人、堀の性病のことを読者にしか漏らしていない。いざとなれば津田由雄には秀子を一発でやり込める秘密兵器がある。

お父さんやお母さんに対する不義理になる訳でもなかろう


 ここもひどく考えさせる台詞だ。つまり津田が小林を怖がってもお父さんやお母さんに対する不義理にならないとして、誰かに対する不義理にはなり、その当事者はお延だということにならないだろうか。

 そう考えてみると単に津田が初夜に中折れしたのではなく、『ノルウェイの森』みたいな話にはならないものだろうか。津田は淡白ではないということを小林は知っている。その淡白ではないところはかつて清子に向けられていただろうということは分かる。清子には淡白でなかったのにお延に淡白ならお延に対して不義理だ。しかしお延も津田が淡白ではないことを知っている。セックスレスなのに?

 このパズルはさすがにややこしい。

だから私も云いません

「解りました」
 お秀は鋭どい声でこう云い放った。しかし彼女の改まった切口上は外面上何の変化も津田の上に持ち来さなかった。彼はもう彼女の挑戦に応ずる気色を見せなかった。
「解りましたよ、兄さん」
 お秀は津田の肩を揺ゆすぶるような具合に、再び前の言葉を繰返した。津田は仕方なしにまた口を開いた。
「何が」
「なぜ嫂さんに対して兄さんがそんなに気をおいていらっしゃるかという意味がです」
 津田の頭に一種の好奇心が起った。
「云って御覧」
「云う必要はないんです。ただ私にその意味が解ったという事だけを承知していただけばたくさんなんです」
「そんならわざわざ断る必要はないよ。黙って独りで解ったと思っているがいい」
「いいえよくないんです。兄さんは私を妹と見傚していらっしゃらない。お父さんやお母さんに関係する事でなければ、私には兄さんの前で何にもいう権利がないものとしていらっしゃる。だから私も云いません。しかし云わなくっても、眼はちゃんとついています。知らないで云わないと思っておいでだと間違いますから、ちょっとお断り致したのです」

(夏目漱石『明暗』)

 会話が手拍子でないとは、相手の思っている通りに答えないということだ。甲論乙駁のようで何かを説明してしまっている会話というのはよくある。漱石作品ではまずそれはない。敢えて言えば『二百十日』で少し手拍子の会話があるが、後は大抵会話は説明しない。

 この「なぜ嫂さんに対して兄さんがそんなに気をおいていらっしゃるか」という言い回しは、実に曖昧だ。この「気をおく」は「遠慮する」「気を使う」という意味で「ほっとする」ではあるまい。このことは最初「恐れる」という言い方だった。後に「可愛がる」に変わる。遠慮する、恐れる、可愛がる、それぞれ別の意味になる。

 お秀は「なぜ嫂さんに対して兄さんがそんなに遠慮し、恐れ、可愛がっているのか」と理解したと言っていることになる。しかし指輪が偶然で、細い眼が残念で、セックスレスであると知っている読者には、お秀が何をどう理解したのかが全く理解できないだろう。

口先が和解的でも大して役に立たなかった 

 津田は話をここいらで切り上げてしまうよりほかに道はないと考えた。なまじいかかり合えばかかり合うほど、事は面倒になるだけだと思った。しかし彼には妹に頭を下げる気がちっともなかった。彼女の前に後悔するなどという芝居じみた真似は夢にも思いつけなかった。そのくらいの事をあえてし得る彼は、平生から低く見ている妹にだけは、思いのほか高慢であった。そうしてその高慢なところを、他人に対してよりも、比較的遠慮なく外へ出した。したがっていくら口先が和解的でも大して役に立たなかった。お秀にはただ彼の中心にある軽蔑が、微温い表現を通して伝わるだけであった。彼女はもうやりきれないと云った様子を先刻から見せている津田を毫も容赦しなかった。そうしてまた「兄さん」と云い出した。

(夏目漱石『明暗』)

 地の文が「無駄に抽象的」というのはこういうところ。

・彼女の前に後悔するなどという芝居じみた真似は夢にも思いつけなかった。→まだなんとなく分る。後悔したふりをしようとは思わなかった、という意味なのだろう。

・そのくらいの事をあえてし得る彼は、平生から低く見ている妹にだけは、思いのほか高慢であった。→ほかの人に対しては出来ても妹に対してそんな真似はできない。日ごろから妹を低く見ている津田は妹に対しては思いのほか高慢であった、という意味だろう。

・そうしてその高慢なところを、他人に対してよりも、比較的遠慮なく外へ出した。→津田は妹に対してはその高慢さを隠さなかった、という意味だろう。

津田は後悔したふりをしようとは思わなかった。ほかの人に対しては出来ても妹に対してそんな真似はできない。日ごろから妹を低く見ている津田は妹に対しては思いのほか高慢であった。津田は妹に対してはその高慢さを隠さなかった

 こうして整理してみると無駄に抽象的という意味が解ると思う。「お秀にはただ彼の中心にある軽蔑が、微温い表現を通して伝わるだけであった」という一文にしても現代では、「ただ彼の中心にある軽蔑が、微温い表現を通してお秀に伝わるだけであった」と直される。「彼女はもうやりきれないと云った様子を先刻から見せている津田を毫も容赦しなかった」も「もうやりきれないと云った様子を先刻から見せている津田を、彼女は毫も容赦しなかった」と直される。この漱石の文体は単に時代の問題ではなく、独自の癖のようなものである。

彼女の真剣であった

 その時津田はそれまでにまだ見出し得なかったお秀の変化に気がついた。今までの彼女は彼を通して常に鋒先をお延に向けていた。兄を攻撃するのも嘘ではなかったが、矢面に立つ彼をよそにしても、背後に控えている嫂だけは是非射とめなければならないというのが、彼女の真剣であった。それがいつの間にか変って来た。彼女は勝手に主客の位置を改めた。そうして一直線に兄の方へ向いて進んで来た。
「兄さん、妹は兄の人格に対して口を出す権利がないものでしょうか。よし権利がないにしたところで、もしそうした疑いを妹が少しでももっているなら、綺麗にそれを晴らしてくれるのが兄の義務――義務は取り消します、私には不釣合な言葉かも知れませんから。――少なくとも兄の人情でしょう。私は今その人情をもっていらっしゃらない兄さんを眼の前に見る事を妹として悲しみます」

(夏目漱石『明暗』)

 この「真剣」に岩波は注解をつけて、「本気、本音」とする。

しん‐けん【真剣】
1 ほんものの刀剣。本身(ほんみ)。木刀、竹刀(しない)などに対していう語。
2 (形動)本気であること。まじめであること。「真剣なまなざし」
3 (形動)真実であること。うそ、いつわりでないこと。*洒・のすじ書「『ヱヱうそじゃ』『しんけん』」

日本国語大辞典

しん‐けん【真剣】
①(木刀・竹刀などに対して)本物の刀剣。本身ほんみ。 ②まじめ。ほんき。真実。「―なまなざし」「―に取り組む」

広辞苑

しん-けん [0] 【真剣】 ■一■ (名) (木刀や竹刀(シナイ)でなく)本物の刀。「―で立ち合う」 ■二■ (形動)[文]ナリ 一生懸命に物事をするさま。本気であるさま。「―に取り組む」「―な態度」 [派生] ――さ(名)――み(名)

大辞林

 しかし「さ」が付かない「真剣」は形容動詞で名詞ではない。意味的には間違いではないがこの「本気、本音」というのは注解者の独自解釈である。ここはそういう意味と比喩がかかっているところだろう。
 つまり「鋒先」で「攻撃」で「矢面」で「射とる」から「真剣」なのだ。その言葉の刀が一直線に兄に向ってくるので、「本気、本音」に比喩としての「真剣」がかかっている。

何にも解りもしない癖に

「何を生意気な事を云うんだ。黙っていろ、何にも解りもしない癖に」
 津田の癇癪は始めて破裂した。
「お前に人格という言葉の意味が解るか。たかが女学校を卒業したぐらいで、そんな言葉をおれの前で人並に使うのからして不都合だ」
「私は言葉に重きをおいていやしません。事実を問題にしているのです」
「事実とは何だ。おれの頭の中にある事実が、お前のような教養に乏しい女に捕えられると思うのか。馬鹿め

(夏目漱石『明暗』)

 これは全ての読者に対する漱石先生のお叱りの言葉である。「おれの頭の中にある事実が、お前のような教養に乏しい女に捕えられると思うのか。馬鹿め」とは、その通り、読者は何も解っていない。他人の頭の中にあることは解らない。
 しかし小説には他人の頭の中の事が書いてあるのに、読者は読み飛ばしている。なんなら眺めてさえいない。「妾」と「私」の勘定すらできない。淀見軒がアールデコだと気が付かない、そんな読者を𠮟りつけているのだ。

 その証拠に「お前に人格という言葉の意味が解るか」と質問している。

 人格とは何か?

 それは津田がどうしても捕まえきれないもの、心理的な特性や主体のことだ。常識的には、そういうものは皆当たり前にあるとされていて、みな人格と云うものを持っていることにされている。しかしどうも津田にはそこが曖昧らしい。

 そもそも自分がどうしてお延を嫁に貰ったのか解らない。指輪を買ったのも偶然らしい。そんなものは痔瘻と同じで、誰も痔瘻になんかなろうとは思っていなかったのに痔瘻になってしまうのと同じだとして、痔瘻とお延に連絡をつけようとしている。

 自分にとって自分とは何か。そんな問題とも思えない問いが疑似問題的だからと言って、その形式を指摘さえすればなんでも片付くというものではない。どうしてお延を嫁に貰ったのか解らないけれども、お延は津田の嫁なのだ。記憶喪失でも健忘症でも精神分裂でもなく、ただ津田にはどうしてお延を嫁に貰ったのかが解らない。

 いや、本当は分かるだろうと言われても、本当に解らないのだから仕方ない。妹は兄の人格に対して口を出す権利がないものでしょうかと言われれば、人格が何なのか解っていないものが口を出すも何もないじゃないかという話になる。それは漱石作品が読めていないのに注解をつけるようなものだ。

 これでは漱石先生から叱られる訳だ。

 少しは真面目に読もう。


[余談]

 勘定して見ると『明暗』には「予言」という言葉が十六回も使われている。つまり書かれていない部分で、この「予言」のふりは必ず落とされるという理窟になる。

 予言。

 決定論的世界観で成立する言葉である。決定論的世界観の中では、人の意思などおためごかしに過ぎない。




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