それは冗談として
太宰治の名言と言えば何と言っても「ワンと言えなら、ワン、と言います」(『二十世紀旗手――(生れて、すみません。)』)だろうと思う。そのタイトルごと、日本文学史上最高の名言と言って良いのではないか。
夏目漱石には「そりゃ、イナゴぞな、もし」他スマッシュ・ヒットが数多い。しかし芥川龍之介の名言はなんだろうと思い出そうとしても、これというものが浮かばない。教科書的に言えば中島敦の名言が「その声は、我が友、李徴子ではないか?」であり、芥川龍之介の名言は「下人の行方ゆくえは、誰も知らない」になるのかもしれないが、いまいち言葉そのものには切れがない。
私は太宰の「ワン」は芥川龍之介の「わん」由来のものだと勝手に決めつけている。そして芥川龍之介の「わん」は、
この漱石の「わんわん戦争」由来か。
これは、
・三島由紀夫の蟹ぎらいは太宰治の『右大臣実朝』および『津軽』の影響。
・太宰は三島由紀夫の『豊饒の海』を予め『海』で「川」だと冷やかしている。
・三島由紀夫の「天皇陛下万歳!」は太宰治の『十五年間』の真似。
・太宰治はシンジュー、三島由紀夫はハラキリという日本独自の文化を世界に発信した。
……といった近代文学2.0の代表的な与太話の一つだ。ここに『保吉の手帳から』よりもう一つ与太話を加えよう。
この部分だけ読めばさして面白みはない。ところがこれに太宰エキスを垂らすとたちまち滑稽が生まれる。
この太宰の犬嫌いも、「わん」ごと芥川龍之介由来だと考えてみると面白い。
この保吉のじつにふわふわした「主計官。わんと云いましょうか? え、主計官。」という台詞が、
この如何にも必死なアピールと「対」になってこそ面白いと思う。無論太宰治を面白くしたのは三島由紀夫で、芥川龍之介を面白くしているのは太宰だという理屈にはなるものの、穿った見方をすれば、三島由紀夫は太宰治の面白さに気が付き、太宰治は芥川龍之介の面白さに気が付いたからこそ、こうした与太話にネタを提供してくれているのだとも言える。
それは、
・夏目漱石の『三四郎』の「知らん人」は、村上春樹の『騎士団長殺し』の「白いスバルフォレスターの男」にそっくり。
……という程度のただの偶然で、けして明確に意識されて書かれたものではなかろう。ただしなにもないところから保吉もの、特に『保吉の手帳から』を読もうとするとそのふわふわ加減に惑わされるだけだ。
芥川龍之介作品には言霊やアニミズムのようなものが現実を侵食する瞬間がある。それは例えば前者は『歯車』のWormであり、後者は『芋粥』の狐である、とは既に書いた通りだ。
ここではもっとふわふわしたものが現れている。毛虫に語らせるアニミズムはともかく、
「同僚に化けた悪魔」とは真面目に受け止めれば、家族や友人がいつの間にか他人と入れ替わっているのではないかという妄想の一種で「カプグラ症候群」と呼ばれている妄想で、医者ならば脳の障害さえ疑わなくてはなるまい。
幸い私は医者ではないので、脳の心配はしない。ここで唐突に頭上に現れる飛行機が『歯車』にも共通しているといういわゆる「単なる偶然」を無の感情で捉えるだけだ。あくまで無で。
仮に『歯車』を恐ろしいと読まなくてはならないなら『保吉の手帳から』も十分に恐ろしい。『歯車』を面白いと読むのならば、『保吉の手帳から』は面白い。いや『歯車』を精神異常で自殺した作家の遺作として読むことを強いられなければ、両作ともふわふわしていて面白いのだ。『芋粥』の狐を認めるならば鶺鴒も毛虫も認めなくてはなるまい。おそらくこれは芥川龍之介という作家の本質的なもの、一貫したところであり、小手先の遊びですらないのではなかろうか。
しかし如何にも捉えがたい。この捉えがたさに立ち向かうためには、一度笑ってみるというのもありではなかろうか。『鼻』は落とし噺から落ちを抜いて構成を変えて書かれた。せっかくの落とし噺の話を壊し、そこからなおふわっと浮き上がってくる詩的情緒を求めたかのような作品になっている。『保吉の手帳から』もまずは太宰の『二十世紀旗手――(生れて、すみません。)』を肴に一笑いして、「お金がほしくてならないのです。ワンと言えなら、ワン、と言います」で、そういえば棒給と賞与の話のようだが、そうではないな、と確認するところから始めてはどうか。
この『保吉の手帳から』は、ただ笑ってしまいにできる小説ではない。
私はこの命を懸けて言える。
芥川龍之介はまだ味わい尽くされていないと。
明日、その味わいを書くと。
駄目なら死んでいる。
[付記]
芥川が失敗したとは思わない。ただその種子は少なくとも太宰には届いた。そこでぷっつり切れている。誰一人芥川を読もうとしない。ただ眺めるだけだ。