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芥川龍之介の『保吉の手帳から』をどう読むか① カプグラ症候群ではない

それは冗談として

 太宰治の名言と言えば何と言っても「ワンと言えなら、ワン、と言います」(『二十世紀旗手――(生れて、すみません。)』)だろうと思う。そのタイトルごと、日本文学史上最高の名言と言って良いのではないか。
 夏目漱石には「そりゃ、イナゴぞな、もし」他スマッシュ・ヒットが数多い。しかし芥川龍之介の名言はなんだろうと思い出そうとしても、これというものが浮かばない。教科書的に言えば中島敦の名言が「その声は、我が友、李徴子ではないか?」であり、芥川龍之介の名言は「下人の行方ゆくえは、誰も知らない」になるのかもしれないが、いまいち言葉そのものには切れがない。

「云わんか? おい、わんと云うんだ。」
 乞食は顔をしかめるようにした。
「わん。」
 声はいかにもかすかだった。
「もっと大きく。」
「わん。わん。」
 乞食はとうとう二声鳴いた。と思うと窓の外へネエベル・オレンジが一つ落ちた。――その先はもう書かずとも好いい。乞食は勿論オレンジに飛びつき、主計官は勿論笑ったのである。 

(芥川龍之介『保吉の手帳から』)

 私は太宰の「ワン」は芥川龍之介の「わん」由来のものだと勝手に決めつけている。そして芥川龍之介の「わん」は、

 これは主人を戦闘線内に誘致する職務を帯びた者と見える。「降参しねえか」「しねえしねえ」「駄目だ駄目だ」「出てこねえ」「落ちねえかな」「落ちねえはずはねえ」「吠えて見ろ」「わんわん」「わんわん」「わんわんわんわん」これから先は縦隊総がかりとなって吶喊の声を揚げる。縦隊を少し右へ離れて運動場の方面には砲隊が形勝の地を占めて陣地を布しいている。

(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 この漱石の「わんわん戦争」由来か。

これは、
・三島由紀夫の蟹ぎらいは太宰治の『右大臣実朝』および『津軽』の影響。
・太宰は三島由紀夫の『豊饒の海』を予め『海』で「川」だと冷やかしている。
・三島由紀夫の「天皇陛下万歳!」は太宰治の『十五年間』の真似。
・太宰治はシンジュー、三島由紀夫はハラキリという日本独自の文化を世界に発信した。
 ……といった近代文学2.0の代表的な与太話の一つだ。ここに『保吉の手帳から』よりもう一つ与太話を加えよう。

 二人は麦酒を飲みながら、何か大声に話していた。保吉は勿論その話に耳を貸していた訣ではなかった。が、ふと彼を驚かしたのは、「わんと云え」と云う言葉だった。彼は犬を好まなかった。犬を好まない文学者にゲエテとストリントベルグとを数えることを愉快に思っている一人だった。だからこの言葉を耳にした時、彼はこんなところに飼ってい勝な、大きい西洋犬を想像した。同時にそれが彼の後にうろついていそうな無気味さを感じた。

(芥川龍之介『保吉の手帳から』)

 この部分だけ読めばさして面白みはない。ところがこれに太宰エキスを垂らすとたちまち滑稽が生まれる。

 私は、犬については自信がある。いつの日か、かならず喰いつかれるであろうという自信である。私は、きっと噛まれるにちがいない。自信があるのである。よくぞ、きょうまで喰いつかれもせず無事に過してきたものだと不思議な気さえしているのである。

(太宰治『畜犬談―伊馬鵜平君に与える―』)

 この太宰の犬嫌いも、「わん」ごと芥川龍之介由来だと考えてみると面白い。

「主計官。」
 保吉はしばらく待たされた後、懇願するようにこう云った。主計官は肩越しにこちらを向いた。その唇には明らかに「直です」と云う言葉が出かかっていた。しかし彼はそれよりも先に、ちゃんと仕上げをした言葉を継いだ。
「主計官。わんと云いましょうか? え、主計官。」
 保吉の信ずるところによれば、そう云った時の彼の声は天使よりも優しいくらいだった。

(芥川龍之介『保吉の手帳から』)

 この保吉のじつにふわふわした「主計官。わんと云いましょうか? え、主計官。」という台詞が、

 私は、荒んだ遊びを覚えました。そうして、金につまった。いまも、ふと、蚊帳の中の蚊を追い、わびしさ、ふるさとの吹雪と同じくらいに猛烈、数十丈の深さの古井戸に、ひとり墜落、呼べども叫べども、誰の耳にもとどかぬ焦慮、青苔ぬらぬら、聞ゆるはわが木霊のみ、うつろの笑い、手がかりなきかと、なま爪はげて血だるまの努力、かかる悲惨の孤独地獄、お金がほしくてならないのです。ワンと言えなら、ワン、と言います。どんなにも面白く書きますから、一枚五円の割でお金下さい。五円、もとより、いちどだけ。このつぎには、五十銭でも五銭でも、お言葉にしたがいますゆえ、何卒なにとぞ、いちど、たのみます。五円の稿料いただいても、けっしてご損おかけせぬ態の自信ございます。拙稿きっと、支払ったお金の額だけ働いて呉れることと存じます。四日、深夜。太宰治。

(太宰治『二十世紀旗手――(生れて、すみません。)』)

 この如何にも必死なアピールと「対」になってこそ面白いと思う。無論太宰治を面白くしたのは三島由紀夫で、芥川龍之介を面白くしているのは太宰だという理屈にはなるものの、穿った見方をすれば、三島由紀夫は太宰治の面白さに気が付き、太宰治は芥川龍之介の面白さに気が付いたからこそ、こうした与太話にネタを提供してくれているのだとも言える。
 それは、

・夏目漱石の『三四郎』の「知らん人」は、村上春樹の『騎士団長殺し』の「白いスバルフォレスターの男」にそっくり。

 ……という程度のただの偶然で、けして明確に意識されて書かれたものではなかろう。ただしなにもないところから保吉もの、特に『保吉の手帳から』を読もうとするとそのふわふわ加減に惑わされるだけだ。

 裏庭には薔薇が沢山ある。もっとも花はまだ一輪もない。彼はそこを歩きながら、径へさし出た薔薇の枝に毛虫を一匹発見した。と思うとまた一匹、隣の葉の上にも這っているのがあった。毛虫は互に頷き頷き、彼のことか何か話しているらしい。保吉はそっと立ち聞きすることにした
 第一の毛虫 この教官はいつ蝶になるのだろう? 我々の曾々々祖父の代から、地面の上ばかり這いまわっている。
 第二の毛虫 人間は蝶にならないのかも知れない。
 第一の毛虫 いや、なることはなるらしい。あすこにも現在飛んでいるから。
 第二の毛虫 なるほど、飛んでいるのがある。しかし何と云う醜くさだろう! 美意識さえ人間にはないと見える。
 保吉は額に手をかざしながら、頭の上へ来た飛行機を仰いだ。
 そこに同僚に化けた悪魔が一人、何か愉快そうに歩いて来た。昔は錬金術を教えた悪魔も今は生徒に応用化学を教えている。それがにやにや笑いながら、こう保吉に話しかけた。
「おい、今夜つき合わんか?」
 保吉は悪魔の微笑の中にありありとファウストの二行を感じた。――「一切の理論は灰色だが、緑なのは黄金なす生活の樹だ!」

(芥川龍之介『保吉の手帳から』)

 芥川龍之介作品には言霊やアニミズムのようなものが現実を侵食する瞬間がある。それは例えば前者は『歯車』のWormであり、後者は『芋粥』の狐である、とは既に書いた通りだ。

 ここではもっとふわふわしたものが現れている。毛虫に語らせるアニミズムはともかく、

同僚に化けた悪魔」とは真面目に受け止めれば、家族や友人がいつの間にか他人と入れ替わっているのではないかという妄想の一種で「カプグラ症候群」と呼ばれている妄想で、医者ならば脳の障害さえ疑わなくてはなるまい。

 幸い私は医者ではないので、脳の心配はしない。ここで唐突に頭上に現れる飛行機が『歯車』にも共通しているといういわゆる「単なる偶然」を無の感情で捉えるだけだ。あくまで無で。

 庭には槙や榧の間あいだに、木蘭が花を開いている。木蘭はなぜか日の当る南へ折角の花を向けないらしい。が、辛夷は似ている癖に、きっと南へ花を向けている。保吉は巻煙草に火をつけながら、木蘭の個性を祝福した。そこへ石を落したように、鶺鴒が一羽舞い下さがって来た。鶺鴒も彼には疎遠ではない。あの小さい尻尾を振るのは彼を案内する信号である。
「こっち! こっち! そっちじゃありませんよ。こっち! こっち!」
 彼は鶺鴒の云うなり次第に、砂利を敷いた小径を歩いて行った。が、鶺鴒はどう思ったか、突然また空へ躍り上った。その代り背の高い機関兵が一人、小径をこちらへ歩いて来た。保吉はこの機関兵の顔にどこか見覚えのある心もちがした。機関兵はやはり敬礼した後、さっさと彼の側を通り抜けた。彼は煙草の煙を吹きながら、誰だったかしらと考え続けた。二歩、三歩、五歩、――十歩目に保吉は発見した。あれはポオル・ゴオギャンである。あるいはゴオギャンの転生である。今にきっとシャヴルの代りに画筆がを握るのに相違ない。そのまた挙句に気違いの友だちに後からピストルを射かけられるのである。可哀そうだが、どうも仕方がない。

(芥川龍之介『保吉の手帳から』)

 仮に『歯車』を恐ろしいと読まなくてはならないなら『保吉の手帳から』も十分に恐ろしい。『歯車』を面白いと読むのならば、『保吉の手帳から』は面白い。いや『歯車』を精神異常で自殺した作家の遺作として読むことを強いられなければ、両作ともふわふわしていて面白いのだ。『芋粥』の狐を認めるならば鶺鴒も毛虫も認めなくてはなるまい。おそらくこれは芥川龍之介という作家の本質的なもの、一貫したところであり、小手先の遊びですらないのではなかろうか。

 しかし如何にも捉えがたい。この捉えがたさに立ち向かうためには、一度笑ってみるというのもありではなかろうか。『鼻』は落とし噺から落ちを抜いて構成を変えて書かれた。せっかくの落とし噺の話を壊し、そこからなおふわっと浮き上がってくる詩的情緒を求めたかのような作品になっている。『保吉の手帳から』もまずは太宰の『二十世紀旗手――(生れて、すみません。)』を肴に一笑いして、「お金がほしくてならないのです。ワンと言えなら、ワン、と言います」で、そういえば棒給と賞与の話のようだが、そうではないな、と確認するところから始めてはどうか。

 この『保吉の手帳から』は、ただ笑ってしまいにできる小説ではない。

 私はこの命を懸けて言える。

 芥川龍之介はまだ味わい尽くされていないと。

 明日、その味わいを書くと。

 駄目なら死んでいる。

 




[付記]

 わたしは勿論失敗だった。が、わたしを造り出したものは必ず又誰かを作り出すであろう。一本の木の枯れることは極めて区々たる問題に過ぎない。無数の種子を宿している、大きい地面が存在する限りは。

(芥川龍之介『侏儒の言葉』)

 芥川が失敗したとは思わない。ただその種子は少なくとも太宰には届いた。そこでぷっつり切れている。誰一人芥川を読もうとしない。ただ眺めるだけだ。


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