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岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する122 夏目漱石『こころ』をどう読むか499 再読の為の注意点

 夏目漱石の『こころ』という作品に関する岩波書店の注釈の根本的な陥穽と云うべきところをまとめておきたい。

・話者「私」の立ち位置が見えていない

 先生と出会った当時の「私」は旧制の高等学校の生徒らしいが、その辺りはわざとぼんやり書かれている。計算してみると先生も三十代と案外若いことから、「私」がKの生まれ変わりのように仄めかされているという設定を掴めていない。「私」の全肯定がKの許しでなくては先生の罪は消えず、あのすがすがしい冒頭はあり得ない。
 この「無理」は「私」が自分の年齢を云えないことや『明暗』で「生きたままの生まれ変わり」という概念が持ち出されることから「無理」のまま受け止めるしかないように思われる。
 年齢の勘定がわざと合わない例は『坊っちゃん』『三四郎』『行人』『道草』と何度も繰り返されてきた。

・乃木静子の殉死に関する疑義が見えていない

 乃木希典は兎も角、乃木静子には殉死の大義はなく、その死も不自然なものである。わざわざ「静」を生かすことの意味を捉えきれていない。日記の「これは神聖か罪悪か」といった文言を引き、乃木夫妻殉死も一つの「無理」なのだと捉えるべき。

・Kが先生の気持ちを知りながら出し抜いたことが見えていない

 Kの言動には明らかにおかしなところがあり、先生の御嬢さんへの愛を知りながら出し抜いた可能性が高い。Kは秘密主義で平気で嘘をつく人間だ。そこに先生は最後まで気が付かないが、「ちょうど好い、やってくれ」などという言葉の意味を考え、先生に釣られることなく解釈すべき。
 またKの死が『行人』で言われていた小刀細工、お祝い、呪と意味が転じることを確認すべき。

※そもそもKが姓ではないと書いていない時点で基本的な国語力が疑われる。

 

・金を見ると罪人になる話だと見えていない


 先生の求婚が一度頭を下げた相手の頭に足を載せたくなる行為であり、金を見ると罪人になる行為であると云う『こころ』の大筋の部分が捉えきれていない。その人間なら誰しも持つであろう「お金が欲しい」という欲求の恐ろしさを人間の罪として抱え込んだ先生の過去の「事実」が見えていない。ここは理屈ではなく「事実」なので、これを見ないといつの間にか「愛と友情の話」になってしまう。「私に取っては容易ならんこの一点」に対する正確な解釈が必要だ。

・「私」が先生の手記を公開していることが見えていない


 夏目漱石だけではなく広く日本文学を研究している方が熱心に『こころ』を解説しているサイトがあって、丁寧に調べている部分もあり、ある意味では感心したのだが、肝腎の所ではところどころ勝手な解釈を入れてしまっていて、結論的にはとても残念なものになっているものがある。恐らくその人は元教師。

 当然岩波の注解者というのもある意味ではほぼ教師、先生である。

 その先生方がこぞって「私」が「先生と書くだけで本名は打ち明けない」「筆を執っても」と現に書いていること、「世間を憚かる遠慮」という程度に書けばたちまち世間に知られる書き手であり、あたかも新聞小説を連載しているかのように書いていること、そして先生の秘密を静が現時点では知らないという仕掛けを説明できない。
 それは「私」が静には過去を秘密にしたいという先生の希望を裏切る筈がないというところに引っかかってしまうからだ。

 この問題は現時点で静が「私」に看護されていると読めば解くことができる。その為に「私」の父親の浣腸ゃ義母の看護があり、まるで飼育のようなKと先生の関係があったのだろう。

 いやいや、そんな不道徳なことがある筈はないと自分の信念のようなもので否定したい人の気持ちもわかる。しかしこの設定の問題を整理するとこういう解釈がまずは可能なのである。

 私はむしろこの設定を「無理」の一つとして読み解くことを放棄することには反対しない。

 しかし書かれていることを捻じ曲げて、先生の手記は公開されていない、実は「私」だけが読んでいるんだ、と解釈してしまえば「あなたにとっても、外の人にとっても、徒労ではなかろう」という先生の遺志を裏切らせていることになる。

 確証バイアスに陥ることなく正しく読むことをお勧めしたい。


 あまり一度に色々書くと混乱してしまうかもしれないので、きょうはこれくらいで。これくらいの所を押さえて一度再読してもらうと、これまでとは違った『こころ』が見えてくると思う。



[余談]

 何でもかんでも「ホモ疑惑」に押し込めている人は、その人自身の性自認がどうとか性的嗜好がどうかとかそういうことは別にして、同性愛差別者と云うことになるのだろうし、そうした偏見を拡散させていることにもなる。大人のやることではない。


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