岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する119 夏目漱石『こころ』をどう読むか496 まるであれじゃないか
私に取っては容易ならんこの一点
これが何なのかきちんと説明できる人がいるだろうか。「ホモ疑惑」? もうそれはいいって。
そもそも当時の日本では同性愛は「自分で自分を殺すべきだ」といった罪悪感を持つようなタブーではない。この時代感覚を無視して自分の思いこみだけで「解説」してしまうからみっともないことになる。現に今「キム〇は何回くらいやられたのか」「し〇ごはいくらなんでもタチだよな。いや、ママだからネコなのか、マヨちゅちゅってそういう意味が」とは騒がれない。そういった歌詞を全部同性愛に置き換えて解釈しようとする人はまだいない。そういうことはあってないようなものだと流される。
この「私に取っては容易ならんこの一点」は、
この詰まらない答え、金を見ると悪人になるところ、その「人間なら誰でもそうだろう」という平凡な答えこそが私に取っては容易ならんこの一点なのだ。つまり先生は君子よりも高潔であろうとした?
ロジック的にはそうなる。しかしここで言われているのは「事実なんですよ。理屈じゃないんだ」と言われている通り、ロジックではなく事実なので、繰り返し私が述べているところの、
この事実が「金のための告白」だと言われていることになる。ごく一般的な意味で「お金が欲しい」というような感覚そのものは罪ではなかろう。しかし確かにこの事実を「金のための告白」と見た場合には先生はみっともないし、狡い。
Kの死に際してまず遺書を確認したことや、その死因に関して誤魔化す態度を含めて、お嬢さんとの結婚に累が及ばないように配慮したとはいえ、そのお嬢さんが奥さんの財産との連携キーであることを考えると、確かに先生は金のために少し悪くなっている。
昨日こんなことがあった。
買い物をして帰ろうとすると「お客さん、忘れてませんか」と店員さんが九千円渡そうとする。今はやりの自動精算機で誰かが忘れたのだろう。見回すと他にそれらしい客はいない。私は「違いますよ」と即答する前に、確かに辺りを見回した。そして「現金?」と訊いた。「現金」と店員は答えた。「違います」と私はようやく答えた。そして足早に店を出ながら心の中で「あぶないあぶない」と呟いた。こんな小銭で人生を棒に振ってはたまらない。たかが九千円で。と冷汗をかいた。たとえ九千円でも泥棒は泥棒だ。
そして考えた。「ああ、すみません」と九千円を受け取っていたら、それから一週間ははらはらして、結局お金を返しに行くんだろうなと。しかしこれが嫁と財産なら返しようがないなと。そりゃ、ずっと嫌な感じになるだろうなと。
私は妻に対して非常に気の毒な気がします
しかし漱石が真面目な話をしながら冗談を混ぜて來る作家であることも確かなのだ。この冗談は勿論、
ここに繋がり、「天罰とか言っていないで夜のお勤めをきちんとしろよ」という突っ込みを待っている。先生と静の夫婦関係は半年ばかり何もない津田由雄とお延の関係に似ているが、どうも津田由雄とお延に初夜らしきものがあるのに対して、先生と静の間にはその気配が見えない。その点もはっきり掴めていれば確かにここには冗談がある。
またぐたりとなります
これまで見てきたようにそもそも「ホモ疑惑」そのものは漱石が仕掛けたもので、「ふり」であるとして、漱石がこんなところでも悪戯を仕掛けているところを見るとむしろ誤読を誘っているかのようでさえある。
この書きようはあくまでも抽象的乍ら、どうにも男性器の怒張と萎えのように映る。これは『行人』にも見られた、
この女性器を思わせる表現と対になるものであろう。このような表現の中で漱石はないことを書くことが出来る。
なんだか『こころ』を暗い話にしたい人とゲイの話にしたい人と、訳が分からないなりに持ち上げたい人しか見つからないので、こういうところも指摘してみる。
[余談]
七十五歳の爺さんが今更村上春樹の『ノルウェイの森』を読んで、「ノルウェイのお話かと思ったら恋愛小説だった」「酒は飲むは女とSEXはするは不良学生と思える」「学生が複数の女性とSEXする話、芥川賞を受賞した小説にあったな」「最近こんな小説が多いのだろうか」と感想を書いていて笑ってしまった。1987年の小説を最近と呼ぶのはさすがに冗談かと思えばそうでもないらしい。それにしても36年前なのだ。
それにしても小説とはこんな読み方をされてしまうのかと感心した。
それでなくてはベストセラーにならないわけだが。
夏目漱石作品も大方こんな風に読まれてしまっているのだろう。
違うんだけどなんか惜しい。
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