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『彼岸過迄』を読む 4352  時系列で整理しよう① 咲子は今何歳なのか?

 夏目漱石作品の中でも『彼岸過迄』ほど読者に頭の負担を強いる作品は他にないと思います。それはまず、作品全体を田川敬太郎を主人公とした冒険譚として読むことを「結末」で規定されていることから、「松本の話」の中の須永市蔵の手紙を松本恒三が読むことを意識しながらさらにその語りを田川敬太郎が聴いている体で読まなくてはならないという複雑な構造になっているからです。これが何度試しても読者として読んでしまい、田川敬太郎の意識が消えてしまうという人も多いと思います。それどころか松本恒三の意識も消えてしまう人もいるのではないでしょうか。

 しかし『坊っちゃん』でいえば清の手紙を読む「おれ」という当事者を意識しないと、そのしみじみとした感じが出てこないのは明らかです。なにせ読者自身は清にそんなに世話になっていませんから。

 問題は須永市蔵の問題に関しては田川敬太郎は当事者ですらないということです。ここが『彼岸過迄』の味噌です。当事者ではない傍観者が主人公なので三層の意識が保ちにくい、という困難さが敢えて仕掛けられているわけですね。

 敢て?

 いや、おそらく敢てです。

 この『彼岸過迄』は「久しぶりだからなるべく面白いものを書かなければすまないという気がいくらかある」と緒言にあるので、如何にも娯楽作品のように捉えかねないが、この意識の三重構造だけが複雑なわけではない。そもそも疎外される主人公というのも珍奇ながら、一番読者を混乱させるのは、いったん過去から未来に進行していた物語が、急に回顧に転じる点にあるのではなかろうか。

 季節は、田川敬太郎が大学を卒業後、就職活動に奔走し疲れたところから始まる。森本から面白い話を聞かされ、杖を譲り受ける。占い師に見てもらい探偵をする頃にはもう季節はになっている。田川敬太郎が田口要作から何某かの斡旋を受けて職を得て田口家の歌留多会に参加した時点で正月になっている。

 ここまでは直線的な時間の進行なので迷子はいないだろう。さて、その後はどうか。

 それは珍らしく秋の日の曇った十一月のある午過ぎであった。千代子は松本の好きな雲丹を母からことづかって矢来へ持って来た。久しぶりに遊んで行こうかしらと云って、わざわざ乗って来た車まで返して、緩り腰を落ちつけた。

(夏目漱石『彼岸過迄』)

 「雨の降る日」の第二章、千代子の語りであるはずの回想はなんとこう始まります。作者、夏目漱石はここで明確に書き残していますね。伏せています。普通ここは「それは三年前の珍らしく秋の日」とか「それは千代子がまだ中学生時代の」と時期が書かれるべきなのです。時期が書かれない回想ってありますか? それは昔話です。つまりその時期がただ過去というだけで、その時期がいつであろうと現在とはあまり関係がない場合には省かれます。

「もうかれこれ三四十年前になりましょう。あの女がまだ娘の時分に、この清水の観音様へ、願をかけた事がございました。どうぞ一生安楽に暮せますようにと申しましてな。何しろ、その時分は、あの女もたった一人のおふくろに死別れた後で、それこそ日々の暮しにも差支えるような身の上でございましたから、そう云う願をかけたのも、満更無理はございません。
「死んだおふくろと申すのは、もと白朱社の巫子で、一しきりは大そう流行ったものでございますが、狐を使うと云う噂を立てられてからは、めっきり人も来なくなってしまったようでございます。これがまた、白あばたの、年に似合わず水々しい、大がらな婆さんでございましてな、何さま、あの容子ようすじゃ、狐どころか男でも……」
「おふくろの話よりは、その娘の話の方を伺いたいね。」
「いや、これは御挨拶で。――そのおふくろが死んだので、後は娘一人の痩やせ腕でございますから、いくらかせいでも、暮しの立てられようがございませぬ。そこで、あの容貌のよい、利発者の娘が、お籠りをするにも、襤褸故に、あたりへ気がひけると云う始末でございました。」
「へえ。そんなに好いい女だったかい。」
「左様でございます。気だてと云い、顔と云い、手前の欲目では、まずどこへ出しても、恥しくないと思いましたがな。」
「惜しい事に、昔さね。」

(芥川龍之介『運』)

 この話は所詮昔ばなしなので三十年前の出来事でも四十年前の出来事でもある意味どうでもいいわけです。「惜しい事に、昔さね。」というわけです。しかし宵子が死んだのは何年前なのか、当時千代子は何歳で、市蔵は何歳だったのかということは物語の要素としては必要なんじゃないでしょうか。それを夏目漱石という人は意地悪く暈します。季節も梅の季節から突然に戻されます。
 意地悪く、というのはこういうことです。

長女 咲子 十三歳

長男 〇〇 十一歳

次女 重子 九歳

次男 嘉吉 七歳

三女 宵子 二歳

 こうして松本の子供の歳だけ正確に記しておいて、千代子や市蔵との年齢差を示しません。これはどう考えてもわざとですよね。恐らくこの時点で千代子は咲子より年上なんだろうなという感じがぼうっとありますが、あくまでぼうっとです。

 これが何年前のことなのか、千代子がこの時点で何歳なのか、自信をもって答えられる人がいますか?

 いたら挙手してください。

 はい。

 誰もいませんね。

 ではこの問題をこれまで調べた人はいますか?

 はい。

 誰もいませんね。

 つまり『彼岸過迄』はこれまで誰にも読まれていなかったということなのです。ただ眺められ、読み飛ばされていただけだったのです。

 しかし「雨の降る日」を高等出歯亀の目で穴のあくほど睨んでも、これというキーが見つかりません。柏木の停車場は大正六年に東中野駅に改名されます。弘法大師千五十年供養塔があるので明治十七年以降のことだと考えられます。

「叔母さんまた奮発して、宵子さんと瓜二のような子を拵えてちょうだい。可愛いがって上げるから」

(夏目漱石『彼岸過迄』)

 千代子がこういうからには御仙はまだ三十代でしょう。ただはっきりと物語の現在と回想の距離を指し示す符号が見つからないのです。今日の今、現時点では。解らないまま「須永の話」は現在に戻ります。いや、現在のようで現在ではない微妙な過去に戻るのです。

 敬太郎が須永の宅で矢来の叔父さんの家にあった不幸を千代子から聞いたつい二三日前、久しぶりに須永を訪問した田川敬太郎は、千代子の結婚問題について市蔵の考えを確かめようという思いがあったのですが、生憎千代子と須永の母がいたのでそのまま帰ります。

 そして次の日曜日、田川敬太郎は須永市蔵を訪ね、郊外へ連れ出します。

 これですよ。ここが夏目漱石の頑固というか、細かいというか、執念深いというか、丁寧なところです。「二三日前」が何曜日か分からないので、「二三日前」と「次の日曜日」と「矢来の叔父さんの家にあった不幸を千代子から聞いた日」の時系列が曖昧なのです。第一「次の日曜がまた幸いな暖かい日和をすべての勤め人に恵んだので、」と勤め人である田川敬太郎が須永を訪問するのは日曜日ごとのような感覚もあります。そうなるともうつじつまが合わないわけですね。

 まず「二三日前(日曜日)」→「矢来の叔父さんの家にあった不幸を千代子から聞いた日(平日)」→「の日曜日」と考えます。すると千代子の結婚問題が持ち上がっている時点で、

「実は僕も雨の降る日に行って断られた一人なんだが……」と敬太郎が云い出した時、須永と千代子は申し合せたように笑い出した。
「君も随分運の悪い男だね。おおかた例の洋杖を持って行かなかったんだろう」と須永は調戯い始めた。
「だって無理だわ、雨の降る日に洋杖なんか持って行けったって。ねえ田川さん」
 この理攻めの弁護を聞いて、敬太郎も苦笑した。
「いったい田川さんの洋杖って、どんな洋杖なの。わたしちょっと見たいわ。見せてちょうだい、ね、田川さん。下へ行って見て来ても好くって」
「今日は持って来ません」
「なぜ持って来ないの。今日はあなたそれでも好い御天気よ」
「大事な洋杖だから、いくら好い御天気でも、ただの日には持って出ないんだとさ」
「本当?」
「まあそんなものです」
「じゃ旗日にだけ突いて出るの」

(夏目漱石『彼岸過迄』)

 こんな会話がなされていたことになります。しかもこの時点で田川敬太郎は千代子の結婚問題に関心を持っていて、その上でこんな会話に参加していたことになります。そして「矢来の叔父さんの家にあった不幸を千代子から聞いた日(平日)」が気になります。市蔵と千代子はいいとして田川敬太郎は働いていたわけですから。しかしそうとはいえ「二三日前(平日)」→「矢来の叔父さんの家にあった不幸を千代子から聞いた日(日曜日)」→「の日曜日」でもおかしいですし、「二三日前(土曜日)」「の日曜日」→「矢来の叔父さんの家にあった不幸を千代子から聞いた日(月曜日か火曜日)」でもおかしいわけです。

 この話はなかなかややこしいので、少し長くなりました。いい加減にはしたくないので、今日は一旦ここで中断します。


[余談]

 この世には「本を読んだ」と思いこんでいる人がたくさんいる。しかし「本を読む」というのはそんなに生易しいことではない。

 ハイポーが抜けるとか、

 噛んでホキ出すとか、「よき」だとか「さすが」だとか、

 「じごく」だとか、

 そんな言葉一つ一つに命を与えないで「本を読む」などと云うことはあり得ないのだ。少なくとも「じごく」の意味を取り違えているダミアン・フラナガンは谷崎潤一郎の『痴人の愛』を読んだことにはならない。
 本を読むとは命がけの行為だ。何故なら本を読むとみんな死んでしまうからだ。


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